シリーズ知恵ブクロウ&生きものハンドブック

南極海 遥かなり

現役時代、28歳から69歳にかけて40年の間に35回"南極海"を航海しました。
言わば"南極海"に魅せられた半生だった、と言えます。
しかし、"南極海"を去って約20年、最近しきりとその頃を思い出します。歳をとった証拠かもしれません。

南極大陸を環状に取り巻く海、南極大陸から南緯40度付近までを南大洋と言い、さらに南緯60度以南を"南極海もしくは南氷洋(なんぴょうよう)"と呼んでいますが、この海は北に太平洋、大西洋、インド洋などと連なる世界で最も広い海です。

私は1952年、昭和27年の暮れに初めてこの海を見ました。
戦後、いち早く南氷洋での母船式捕鯨が占領軍司令部の許可のもとに再開されましたが、同時に謎の多い南極地域の自然を調べるために、占領軍は各母船に当時の中央気象台に対して気象学ならびに海洋学の専門家を乗船同行させ、調査研究、かつ報告させることを命じました。

1952年講和条約発効後の独立を取り戻した日本でも、その流れを継いで、当時の中央気象台は出張の形で捕鯨母船に便乗して南極海に行く科学者を募集しました。当時、血気盛んだった私は、早速これに応募、許可され、1952年12月1日に大阪港を出港する、日本水産株式会社所属の捕鯨母船『図南丸』に乗る事となりました。

初冬の日本から南下して、海路南極海に向かう航路は、南北太平洋を縦に切る地球規模の気候帯と、大きな大気の流れ(風系)を実感する、文字どおり地球科学の教科書的な航海なので、最初からその期待に胸を膨らませていました。

またこの航海で乗船することとなった『図南丸(となんまる)』は、実に数奇な運命をたどった船でした。
この船は、戦前1938年に『第三図南丸』として完成、1940年まで南氷洋捕鯨に参加しましたが、太平洋戦争開戦と同時に油槽船として海軍に徴用され、何回かの米潜水艦からの攻撃や空襲に耐えましたが、1944年ついにトラック島環礁の中で沈没してしまいました。

しかし、戦後1950年秋、現地で浮揚に成功、その後多くの困難を越えて日本まで曳航され、兵庫県相生で再生工事の結果、不死鳥のように見事に戦後の新しい『図南丸』に生まれ変わり、新生日本のホープとして再度南氷洋に向かう事となりました。

戦後僅か7年、焦土と貧困の中での南極海行きは、文字どおり『新生日本』のシンボルでもあり、私たち参加乗員はそのホープでもありました。

それにしても未知の南極海での最初の体験は、驚きの連続でした。
目まぐるしく変わる天候。
最大瞬間風速63m/sに達する強風。
目標波高19mに達する山のような大波の暴風圏。
南北125海里(約230km)東西25海里(約46km)に達する巨大な氷山との遭遇。
9,000トンの船団所属冷凍母船の事故による沈没。
濃霧の中での、米第43機動部隊との遭遇。
ロス海の奥、南緯77度までの南下、一面の氷棚(大和雪原)を冒険したこと。見渡す限り広がる海氷原と、無数の氷山群。
などなど、まったく驚きに満ちた南極海での初体験でしたが、これがこのあと40年もお付き合いするこの海との最初の出会いでした。

馬場 邦彦(ばば くにひこ)

1925年佐賀県生まれ。科学技術士(応用理学)・気象予報士。
1944年中央気象台付属気象技術官養成所本科(現気象大学校)卒業後、海軍、第1001海軍航空隊気象士となる。大阪の気象台を経て、日本水産㈱に入社。21回 南極海を捕鯨船団気象長として航海した。
1980年には、(株)気象海洋コンサルタントを立ち上げ、現在は会長を務める。その間も、南極地域海底地質基礎調査に参加し白嶺丸で南極海を航海した。
そのほか、国際ヨットレースにも多数参加。過去には、ソウル・バルセロナオリンピックにも出場した。
趣味は、旅行・もっぱら客船クルーズを楽しんでいる。著書に『図解早わかりお天気ブック』(舵社発行)などがある。
『図解早わかりお天気ブック』(舵社発行)
(株)気象海洋コンサルタント

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