7月11日に迫った、第3回丸の内検定。
受験する人もしない人も、知って得する大丸有トリビアを勉強しちゃいましょう!
丸の内地球環境新聞では、試験日まで毎週1問、丸の内検定ガイドブックの問題をご紹介します。今週は歴史問題!
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東京駅丸の内北口一帯は、ホテル、大型書店、クリニックなどさまざまな機能を備えた新しい高層ビルに生まれ変わった。その一つ、丸の内北口ビルのエントランスホールの床にある黒御影石に線刻が施されている。なにを意味しているか。
(1) 細川家屋敷跡 (2) 山内家屋敷跡
(3) 伊達家屋敷跡 (4) 松平家屋敷跡
ここはJRビル、交通公社ビル、丸の内ホテル、丸の内センタービル、第一勧業銀行のビルが立地する一帯だった。それが通称丸の内oazoと呼ばれる複合商業ビルに生まれ変わったが、江戸時代まで遡れば大名の上屋敷が建ち並んでいた。広大な屋敷が多かったので、
夕立を 四角に逃げる 丸の内
という江戸川柳に歌われてもいる。
明治政府は、武家屋敷を没収し庁舎や軍用地に転用した。明治8年の古地図にはすでに大名家の名はなく、陸軍関係と司法関係、警視庁などが並ぶ。しかし明治4年の古地図には、司法省、兵部省の記載とともに、"肥後"がある。この場所一帯に熊本の細川家の上屋式があった証である。
肥後国は古くは火国といい、現在は熊本県。慶長図には細川忠興とその妻ガラシャ夫人との間に生まれた細川忠利の名がある。この忠利が寛永9年(1632)に肥後熊本54万石の城主となり、以来、外様の雄藩として継続し明治維新に至る。
その跡地に丸の内oazoがあるわけだが、日本橋から本店を移転した国内最大級の書店丸善や、日本経済新聞グループの日経ノティオ、宇宙航空研究開発機構のJAXAiなど、ほかのビルとは一味違う文化的な要素を取り入れたビルである。
さて、エントランスホールの黒御影石の線刻は、細川屋敷の柱、壁、扉などの配置を表している。多くの人が気にもとめずに行き来しているが、織田、豊臣に仕え、関が原の役には徳川方に属し、明治まで続いた細川家の上屋敷跡だと知ったならどのような感慨を抱くであろうか。
* 写真:床に施されたデザインのような線。かつてこの地に大大名の細川家上屋敷があった証だ
* 記事本文は、丸の内検定ガイドブックより提供されています
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