いよいよ2日後に迫った、第3回丸の内検定。みなさん準備はいかがですか?
丸の内地球環境新聞では、試験日まで、毎週丸の内検定ガイドブックの問題をご紹介しています。今回は文化・芸術問題!
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ご当地ソング流行のおかげで地名が知られることがままある。フランク永井が歌った「有楽町で逢いましょう」はその典型だった。歌詞中にある合言葉は、誰と誰の合言葉か。
(1) 君と僕 (2) あなたと私
(3) あいつとお前 (4) おいらとあんた
低音の魅力--ともてはやされたフランク永井が歌い一世を風靡した『有楽町で逢いましょう』。甘いメロディと歌詞のおかげで有楽町の名は、洒落た大人の街として全国津々浦々に知れ渡った。
ところで「有楽町」の地名だが、織田信長の実弟・織田長益(有楽斎)が、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を置き、その屋敷跡が有楽(うらく)原(はら)と呼ばれたことに由来するとの通説がある。有楽町が正式な町名になったのは明治5年(1872)である。
西南の役と維新の三傑の死で迎えた明治10年代の丸の内界隈は、武力抗争を諦めた不平士族が言論による反政府運動を展開する拠点を形成していく。ことに有楽町周辺は新聞社や出版社が数多く進出した。官庁街に近いこと、発行紙誌の輸送手段となる鉄道の便に恵まれていて好都合だったためだ。
太平洋戦争終結後、占領軍は有楽町の第一生命ビルをGHQ(連合国軍総司令官総司令部)とし、総司令官ダグラス・マッカーサーは、このGHQに在任中一日の休みなく通い執務することになる。
終戦直後、闇市があり占領軍や娼婦が横行していた有楽町界隈であったが、周辺には日劇や東宝宝塚劇場があり垢抜けた街でもあった。昭和32年(1957)5月25日、大阪から百貨店のそごうが、讀賣新聞所有の讀賣会館のテナントとして出店する(現 ビックカメラ)。そのキャンペーンソングをフランク永井が歌い大ヒット曲となった『有楽町で逢いましょう』(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)である。「あなたと私の合言葉」と、このメロディが津々浦々に流れ人々の唇にのり歌われ、有楽町の地名は全国に知られるようになる。
その後、主要な映画会社の看板館のあった日比谷、有楽町は、洋画のロードショーのメッカとして認知される。日活、東宝、新東宝などの大手映画会社の本社がこのエリアに集中し、わが国の映画産業の牙城として映画業界を支えてきた。しかし、昭和初期に建設された日劇や宝塚劇場の老朽化はいうまでもなく、同時に駅前開発により昭和56年(1981)、日劇は有楽町マリオンとして生まれ変わる。
平成12年(2000)には有楽町そごうが閉店しビックカメラがオープン、平成19年(2007)10月には丸井をメインテナントとした有楽町イトシアが誕生。有楽町駅界隈はハイソサエティーな町として、新たな賑わいを作り出している。
* 写真: 有楽町そごう跡地はビックカメラ有楽町本館(読売会館ビル)に。
* 記事本文は、丸の内検定ガイドブックより提供されています