東日本大震災から半年余りが過ぎましたが、被災地の復興はまだまだ始まったばかり。被害の大きかった宮城県石巻市でも復興が始まっています。しかし、「せっかく復興するんなら震災以前と同じまちを作ったんじゃつまらない。これを機に新しいまちを作りたい」と考える人達がいるんです。
そんな彼らが作るフリーペーパーが「石巻2.0」。バージョンアップした石巻の姿がそこに描かれます。大丸有のそうですが、「まち」というのは長い時間をかけて創り上げていくもの。しかし、そのまちづくりの歴史が一瞬で覆されてしまった石巻では、一からまた新しいまちをつくろうとしているのです。そこには、無限の可能性があり、どんなまちを作るのかはそのまちに住む人たちしだい。震災と津波は大きな悲劇でしたが、その破壊のあとにはわくわくするような未来が待っていたのです。悲劇を繰り返さないことはもちろん重要ですが、その上で石巻の人たちがどんなまちを作るのか、とても楽しみですね。
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presented by greenz.jp(greenz.jpは、丸の内地球環境新聞をプロデュースしています、じつは。)
先日、ボランティアとして訪れた石巻市で、一冊のフリーペーパーを手にしました。『ISHINOMAKI2.0 VOL.0 VOICE』と書かれた小さな冊子。ページをめくると、ずっしりと重みを持った言葉で震災の経験を語る石巻中央商店街の人々のインタビュー記事がずらり。時には目をそらしたくなるような凄まじい体験談と共に綴られていたのは、こんな言葉でした。
復興後のまちを考えるとワクワクする。
住んで楽しいと思えるまちづくりがしたい。
災害に強くしても、人のいないまちをつくってどうするんだ、と。
震災後、半年の月日を懸命に生きてきた彼らが今、口にするのは、"復興"よりも"まちづくり"という言葉。その想いを共有し、まちの人と一体となって石巻のまちづくり取り組んでいるのが、このフリーペーパーを発行した『石巻2.0』実行委員のみなさんです。震災直後からこのプロジェクトに関わる彼らに、プロジェクトの全容と、石巻の今とこれからについてお話を聞きました。
『石巻2.0』は、石巻中央商店街の若手商店主やNPOと、全国から集まったデザイナー、建築家、大学の研究室など様々なジャンルの有志が一体となって取り組む石巻のまちづくりプロジェクト。ホームページには、
石巻は生まれ変わります。
3.11前の状態に戻すなんて考えない。
昨日より今日より、明日を良くしたい。
と、プロジェクトへの想いが表現されています。
"3.11前の状態"というのを少し補足しておきますと、この商店街は、郊外型ショッピングモールの台頭により、いわゆるシャッター街となっていたという状況下にありました。そんな中、東日本大震災により街の機能を完全に失い、商店街の人々の想いは「震災をきっかけに、中央商店街から復興の狼煙を上げたい」というものに集結。復興支援のために駆けつけた人々と共に、石巻を"もっと良くする"ための様々な取り組みを始めたのです。
プロジェクト発足後、まず取り組んだのが、地元の方から強い要望のあったブックレットの作成。編集期間2週間というスピードで7月中旬、フリーペーパー『ISHINOMAKI2.0 VOL.0 VOICE』を5万部発行し、石巻市をはじめ、仙台市や関東にも配布しました。それを皮切りに活動は一気に加速。石巻に夏の到来を告げる「川開き祭り」(7/31〜8/1)の際には、その前の1週間を「STAND UP WEEK」と名付け、街づくりシンポジウム、復興バー、無料野外映画上映会、など様々な企画を実施。街の人はもちろん、県外からの観光客にも石巻の復興をアピールしました。その後も、フットサル大会、子ども向け映画上映会などのイベントを開催し続けると共に、イベントの枠組みを越えた新しい取り組み(詳細は後編にて!)にも着手するなど、その勢いは留まることを知りません。
一冊のフリーペーパーから始まった街づくりプロジェクト『石巻2.0』。実行委員のみなさんは、普段は東京で働き、各分野でご活躍の方も多くいらっしゃいます。いったいどんな思いでこのプロジェクトに関わっているのでしょうか。そして、彼ら見据える石巻の未来とは?
実行委員として活動されている、広告プロデューサーでフリーペーパーの編集長も務めた飯田昭雄さん(ワイデン+ケネディ トウキョウ)、建築家の西田司さん(オンデザインパートナーズ)、同じく建築家の梅田綾さんにお話を聞きました。
飯田:本当にいろいろなジャンルの方々が様々な縁で集まって来てるんですが、僕の場合は青森県八戸市の出身で、東京にいる東北人として何かできないか考えていて。はじめは支援物資を持って行くような活動をしていたんですが、そのうち、「中途半端な気持ちで関わるものじゃないな」と、自分にできることをもっと深く考えるようになりました。そんな時、同僚のコピーライターを通じて、石巻にゆかりのある建築家の方に出会い、「何かみんなで一緒に考えたいですね」ということになって、現地で顔合わせをして。電気も無い暗い部屋で工事用の照明をつけて、石巻の方とこれからどんな街づくりがしたいか話し合ったんです。
その時、それまで地元の方々だけで話していてもなかなか前に進まなかったところを、僕らみたいなクリエイティブサイドの人間が加わったことで、「この人たちとだったらなんか面白い街づくりができるんじゃないかな」と感じてくれて。その場にいた、今このプロジェクトの代表になってくださっている石巻の方々が「一緒にやりましょう」と言ってくれたんです。
このときのみんなの情熱というか熱量は異様に高かった。変なたとえかもしれませんが、幕末の武士たちが「国をどうするか」なんて話しているのはこんな感じなんじゃないかと思うんですが、ゼロ以下になってしまった街で、でも希望を失わず、しかもこの場所から逃げずにここで生活していくという覚悟を持った人たちの熱に僕らがやられたというか、こういう方々を助けずしてなにをするんだと感じました。
飯田:そう、それに、僕らが東京から持ち込んでいくいろいろなアイデアに対して、本当にオープンに受け入れてくださる方々で。僕らも何回も行き来している中で石巻の人たちの明るさを感じました。もともと遠洋漁業が発達していて、いろいろなところから文化が入ってくる場所で、そういう意味では開かれていた街で。それが今の石巻の強さにつながっているのかもしれません。復興が他の街に比べて進んでいるのも、もしかすると元々あった石巻の街とか、人が持つDNAが、外から来た人も柔軟に受け入れるものであったことが、すごく大きいんじゃないですかね。
飯田:僕らの持っているリソースやネットワークやスキルはクリエイティブ寄りのものなのですが、まずは地元の方と対話して、何が必要なのか、何を求めているのかヒアリングすることから始めたんですね。同時期に、今回の発起人でもある東京工業大学の真野先生の都市工学を研究しているゼミの方たちが、石巻のフィールドワークを積極的に行って街の人の声を拾ったりしていた。それらを総合して、いろんな声が聞こえ始めた時に、東京から持っていけるリソースやアイデアをどうくっつけるか考えよう、と。
当時、石巻の方の話を聞いていると、行政はいろんな話はするんですが、結局実行までは落ちて来ないことへのフラストレーションはすごく感じていて。僕らはどれだけスピード感を持って実行できるか、ってところがすごく大事なんだなっていうことに気がつきました。だったら早く実行して目に見えるもの、経験できるものを自分たちの手でつくりましょうということでアイデアが動き始めて。最初の先方の意見としては、「石巻を紹介するブックレットをつくりましょう」というものだったんです。
飯田:はい。石巻の街自体のブランディングに対して、行政も若い人もほとんどやっていなくて、行政のつくったブックレットも若い人は手にも取らないようなものだったんです。でも、石巻もすばらしい街だし、観光資源もあって、すばらしい人がいて、それをなんとか上手く表現したいね、っていう話になったときに、ブックレットは彼らとしては一番リアリティのあるもので。ネットよりも、リアルに手に取って見えるものが必要だったんですよ。僕はこの業界に入るまでは編集をやっていましたので、それならできると思って、6月後半頃からフリーペーパーの企画が始まりました。
飯田:石巻の人の声を伝えるという、その一点のみですね。本を作っていた6月後半の時点で、ニュースに流れるのはせいぜい放射能の問題で、週末の特集で被災地のニュースが流れるようなレベルで、津波とか地震の被災地にフォーカスしたものは風化し始めていた。2〜3ヶ月しか経っていなかったのに、伝えるべきことがあるのに伝えていない現状に、メディアに関わってる人間として、ちょっとした憤りもあって。自分たちが出すメディアは、表面的なことではなく、もっと深いところ、リアルな真相につっこんだところを出そう、と。じゃあ、今の街の現状を聞いて声を伝えるのが一番早いんだなって。この方針はたぶんずっと変わらないです。
飯田:石巻の人たちはマイナスからのスタートなので、その人たちと一緒に立ち上がっていきたいなと思って0号にしました。次に予定しているのは『FURTURE』。『VOICE』は現時点のリーダーなのですが、この先10年後、20年後の石巻をつくって行くであろう小学生中学生高校生、あとはボランティアをやっている子にもフューチャーしようかなと思っています。目標は11月いっぱいにリリースで、今後も季刊くらいを予定しています。ただ、石巻の街が今、すごくダイナミズムな時間軸で動いているので、このタイミングで、ということがあればスポットでも出すかもしれません。
飯田:本当に涙がでるくらい反響が大きくて。「すごくうれしい」と言ってくれる人もいるし、避難所に持って行ったら、「○○さんじゃん!」って自分の知っている人とか、本当に自分たちと同じ目線で語っている人がでているということで喜ばれて、避難所ではあっという間になくなってしまったんです。最近では地元のじゃない方で、例えば信号がまだ復活しない石巻で交通整理をなさってる警察官の方も自分の地元の警察署にも置きたいと言ってくださったり。本当にいろいろなところに浸透していっています。それはたぶん無編集というか、ストレートにやったことがストレートに伝わったんだな、と思いました。
西田:見えないものを声によって見える形にしていくということは、すごく健全な復興へのアプローチだったんだな、と思います。今回関わってくださっている真野先生は阪神大震災復興の時もまちづくりの支援活動をされていたのですが、住民の方々に「震災の後まちをどうしていきたいか」についてお聞きすることができたのが、震災から半年経った後だったんです。それまでには行政が主導するインフラ整備中心の復興事業の流れがすでにできてしまっている。そうやってインフラ整備がコアとなって復興が進んでいく街では、街の再生にとって大事な部分が見えにくくなってしまうことも多かった、と。
真野先生は、他の街でもフィールドワークを重ねていらっしゃいますが、アンケートや調査ではなく、こうやってインタビューによって住民の声をダイレクトに起こすことは非常に有効だ、ということを知見として持たれていました。
僕も震災後一ヶ月くらいでガレキ撤去のボランティアから入っていったんですが、休憩時間に地元の方と会うと、凄まじくしゃべる訳ですよ。自分にとって震災はどうだったか、とか。被害が甚大で、なんとかしなきゃいけないけど、なんとかするんだったらちょっとでもいい街をつくりたい、と言っていて。街は壊れていて、ぱっと見ガレキかもしれないけど、そこには今生きている人の営みがあって。ガレキ撤去ももちろん必要な時期だったと思うんですけど、プラスαで、その先を見越して今から少しずつ種まきをすればできることがあるのではないか、と。その第一期が、街の声を集めるということだったんです。
フリーペーパーが起爆剤となり、『石巻2.0』ではその後、様々なイベントやプロジェクトを仕掛けていきます。その様子と、今後のまちづくりについては、引き続き後編でお話を伺っていきます。
前編の最後に、『石巻2.0』を先頭に立って進めていて、現在「復興バー」の店長でもある松村豪太さんのブログ「爆心地から〜がんばっぺ石巻〜」をご紹介します。
おかげさまで、被災地石巻に関心を持っていただき、たくさんの方に本ブログをご覧頂いているようです。
報道の取り扱いは当初に比べ大分減ってきているようですが、被災地は大津波当日から、全くの別世界 に迷い込んだまま、復旧の見込みは立っておりません。 どうか、このまま関心を持ち続けていただけるようお願い申し上げます。
『VOICE』の全ページもウェブで公開中!