過去のレポートどうする大丸有?! 都市ECOみらい会議

都市の緑が、防災に、循環型社会に、交流に効く(横張真氏、野城智也氏)

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1. 都市公園の成り立ちとその変遷

日本の都市公園や緑地は、景勝地や花見の名所として市民の憩いの場として、文明開化の象徴として、あるいは災害時の避難所や復興の現場として、時代ごとに多様な役割を担ってきた。さらに現代では、都市のヒートアイランド化を緩和し、[[生物多様性]]の保全に寄与し、地域の歴史的・自然的資産を活用した観光の拠点にもなっている。現在の経済状況などから、新たに公園を設置するのが難しいなかで、果たしてこれからの都市公園、緑地はどうあるべきなのだろうか。公園の歴史を振り返りつつ、環境、災害対応、農、多様性などをキーワードに、都市の新しい公園緑地のあり方を模索したい。

1. 都市公園の成り立ちとその変遷
―災害時の避難所であり、都市の環境改善の場として

野城: まずは、都市公園緑地の成立と変遷についてレクチャーいただければと思います。また、東日本大震災という未曽有の災害を経験した直後ということもありますので、災害と公園緑地についても、歴史的な経緯についてご教示ください。

横張: 最初に、震災と公園緑地についてお話ししたいと思います。今回の東日本大震災の場合は、非常に広域かつ三陸を中心とした沿岸部の漁村・農村であったこと、その被害の大半が地震というよりも津波であったことから、いわゆる都市公園の役割はそれほど大きくはなかったのかもしれません。しかし、今後予想される東京直下型地震などを含めて、都市部における大規模な災害においては、都市公園の果たす役割は決して小さいものではありません。

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歴史的にも、都市公園の成り立ちは震災と大きく結び付いています。その代表的な例が、関東大震災(1923年)後に後藤新平が立案した帝都復興計画です。帝都復興計画の大きな目玉の一つが、震災復興公園の整備でした。というのも関東大震災では、多くの被災者の方が公園に逃げ込み、避難所として活用したという経緯があったからです。なお、関東大震災での被災者は150万人にのぼり、約6万人(10万人など諸説ある)が亡くなったとされています。

そこで帝都復興計画では、大規模避難地として墨田公園、浜町公園、錦糸公園の三つが整備・指定され、さらに小学校に併設して52ヵ所の公園が整備されました。これは、学校とその校庭、公園を一体として防災拠点に活用するという発想のもと整備されたものです。平常時には、さまざまな学校行事に公園と校庭を一体的に活用するという意図もありました。残念ながら現在では、公園が別の施設につくり替えられてしまったり、公園と学校では管轄官庁が違うことから、一体的な利用ができなくなったりしているところもありますが、阪神淡路大震災においても、また今回の東日本大震災においても、学校や公園が被災者の一時の避難所となるなど、災害時における都市公園の役割が再確認されています。

ところで、ヨーロッパなどの街並みを見ると、公園は何百年も前からあるように思えるかもしれませんが、実は公園の歴史はさほど古いものではありません。近代的な公園は、19世紀の半ば以降に設置されたもの。というのも公園の発祥は、市民革命で中世の封建社会が崩壊し、その後の産業革命によって、都市部に工場労働者が大量に流入するようになったことに起因するものなのです。たとえば、当時のパリに代表されるヨーロッパの大都市の多くは中世の都市構造のまま発展したため、上下水道がなく、排泄物をアパルトマンの窓から路上に投げ捨てるといった具合で、産業革命後の都市の過密化による衛生環境、大気汚染、日照不足などが大きな問題となっていました。このようなきわめて劣悪な都市環境を改善するために整備されたのが都市公園だったのです。つまり、公園は一部の特権階級のための都市のお飾りではなく、労働者階級を中心とする市民の公衆衛生上の環境改善の一環として整備されたものでした。

一方、18世紀のイギリスでは、「風景式庭園」といって、典型的な田園風景に美を見出し、田園風景を庭園に見立てた様式が確立されます。これはフランスのヴェルサイユ宮殿の庭園のような、きわめて建築的で幾何学的な庭園とは対照的なスタイルです。19世紀の産業革命で財を成したブルジョワジーたちは、郊外の風景式庭園を備えたカントリーハウスに家族を住まわせ、自身は都市で働くという生活様式を理想とするようになります。さらに、このような生活形態が、19世紀末のハワードの田園都市論や、20世紀のグリーンベルト構想へと引き継がれていく。つまり、非常に劣悪になってしまった都市環境に対して、それを補完するものとして、郊外、田園、農の風景が認識されるようになったというわけです。

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2. 日本の公園の歴史はヨーロッパより古い

2. 日本の公園の歴史はヨーロッパより古い
―神社仏閣、花の名所、農の果たした役割

野城: 日本の公園の場合はどうだったのですか?

横張: 日本では江戸時代以前から、一般の人々の遊興の場として、神社仏閣の境内が公園の役割を果たしていました。当時は、歌舞伎も相撲も市も、神社仏閣の境内に仮設のテントのようなものを設置して行われていました。男女の逢引なんていうものも、神社の境内の物陰で行われていましたしね(笑)。

green_bosai_02.jpg葛飾北斎「勝景雪月花 東都飛鳥の花」

さらに八代将軍・徳川吉宗(将軍在位1716年〜1745年)の時代に、花見の名所が整備されます。北の飛鳥山(東京都北区)、南の御殿山(東京都品川区)、東の墨田堤(東京都墨田区)など、もとからあった景勝地に花や紅葉を植えて一般の人たちへと開放したのです。18世紀初頭のことですから、日本では、ある意味ヨーロッパより早く、一般の人が楽しめる公園のような空間が整備されていたといえます。

その後、日本は明治維新という大きな転換期を迎え、新政府ができたばかりの1873年(明治6年)1月15日に、太政官が公園にかかわる布達を出しました。今後は神社仏閣の境内や景勝地を公園として定めるため、その調査をして太政官に申し出なさいというものでした。明治政府による廃仏毀釈や廃藩置県による武家の江戸離れの影響により、江戸のまちが荒れ、スラム化しないように大名屋敷や神社仏閣の境内などを公園化しようという措置でした。このとき、指定されたのが寛永寺の敷地だった上野公園、増上寺の敷地だった芝公園など。江戸の遺産を統治する手段として、公園を活用したんですね。

green_bosai_03.jpg日比谷公園 芝生広場

ちなみに、日本でつくられた最初の西洋式の近代公園は、1903年(明治36年)に開園した日比谷公園だとされています。日比谷公園は東京市区改正に伴い、陸軍練兵場を公園へ転用したもの。日本の表玄関として、また富国強兵、文明開化の象徴として整備されたものでした。つまり、ヨーロッパの公園の成り立ちとは趣きを異にしています。

日本の場合、本当の意味で市民のための近代的な公園が成立したのは、先述の関東大震災以後のことだろうと私は考えています。

野城: 都市の緑という観点で、日本における「農」の果たした役割については、どうお考えですか?

横張: 江戸の緑を語るうえで、農地は非常に重要な役割を果たしていました。江戸の朱引線の内側(幕府が江戸の範囲を示した線)を調べると、その4割が農地だったことがわかります。しかも、それらは江戸の外縁をとり囲んでいたわけではなく、町の中に織り込まれていた。これはヨーロッパの都市には絶対に見られない特徴の一つです。その理由として、(1) 城壁がない、(2) 都市で食される野菜が長距離の輸送に耐えられない、(3) 火山灰が堆積した関東ローム層では土地改良が必要で、肥料として大量の人糞が必要だったことなどが挙げられ、町の中に農地を置くことがきわめて合理的だったためだと考えられます。

この江戸の循環型社会を物語る、有名なエピソードとして、幕末に日本を訪れた外国人たちが、江戸の町中にまったく汚物がなく、非常に清潔なことに驚嘆したという話が伝えられています。パリでは人糞を路上に投げ捨てていたのに対して、江戸では人糞を集めて農地に還元していたわけですから。都市の美しさと、江戸の食生活を支えた町中の農地は、表裏一体の関係にあったということですね。

日本では、すでに江戸時代にこうした優れた循環型の社会システムが確立されていた。こうした先日の知恵を、現代のまちづくりにどう生かせるのか、大きな課題といえるでしょう。

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3. 時代を超えて複層的に連なる東京の緑地

3. 時代を超えて複層的に連なる東京の緑地
―分け与えられる公の空間からの脱却

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野城: お話をお聞きしていて、今、東京にある緑が、それぞれの時代ごとに、さまざまな考え方によって形成されていったことがよくわかりました。
とくに江戸の農地のありようは、比較的現代まで引き継がれていたのだと実感しています。というのも、私は世田谷生まれなのですが、子どもの頃には周囲に農地も肥溜めもあって、草野球で肥溜めに球を打ち込んでしまうとスリーアウトチェンジになるというルールがあったんですね(笑)。つまり、江戸時代の都市構造が、時代を経て、1960年代くらいまでは郊外に存在していたといえます。

横張: 私は東京の下町生まれですが、まったく同じです。畑の傍に肥溜めがあって、ボールだけでなく、同級生も落っこちていましたけど......(笑)

野城: 一方で、さきほどの19世紀のイギリスのブルジョワジーのように、海や山のある逗子や鎌倉に住んで、都心に働きに来るというライフスタイルもあったでしょう。東京には、さまざまな時代の社会様式、緑のあり方が複層的に重なっているわけですね。

横張: 日本では、江戸時代から緑のあり方は多様だったといえます。私的な緑地であった大名屋敷の庭園は、多いときで1000以上あったといいますし、江戸は台地と低地の端境にあって、その崖線には帯状に緑が連なっていて、まちの輪郭を形成していました。また、町人が暮らす下町の人口密度は現在の5〜6倍と非常に高密度でしたが、軒先にアサガオやホオヅキなどの植物を置くなどして緑を楽しんでいました。庶民から大名に至るまで、いろんな空間でさまざまな緑をうまく活用していたのです。

野城: 明治6年の太政官布達の後、緑地の使われ方は変わったのですか?

横張: 明治政府は発足当初は財政的にほとんど破綻していたこともあって、公園にしたからといって、何か特別に整備をしたということはなく、使われ方もそのままでした。日本の場合は、吉宗が桜の名所を整備したときから、公園は為政者が下々の者に分け与えるものである、という暗黙の共通認識が現代に至るまで受け継がれているといえます。市民革命を経て、権力者から市民が権力を奪い取った象徴として公園があるヨーロッパとは、公園に対する意識は決定的に違うと思います。だから、日本では公園は自分たちのものではない、という感覚が身についてしまっているのではないでしょうか。

野城: 一方で戦後、高度経済成長を経て、公園自体は増えて行ったわけですよね?

横張: はい。たとえば東京では,1960年代前半には1000haにも満たなかった公園面積が、現在では5000haに届かんとしています。とはいえ実際に増えたのは、三多摩地区や湾岸部が中心で、防災上必要だとされる環状7号線の内側では、まったく足りません。23区の1人当たり公園面積は約3.9平方メートルと、全国の自治体中最低の水準です。バブル崩壊以降は、新たに公園をつくることは、地方都市も含めてほとんど不可能になっています。

野城: 明治6年のときに私有地から公園へと看板を掛け替えたように、行政も肩の力を抜いて、もっと柔軟な発想で新しい緑地をつくっていくことが求められるのかもしれませんね。

横張: おっしゃる通りだと思います。従来のように、緑地は官が整備し、市民に分け与えるという考え方を改めて、今後は、公私を明確に分けることなく、ときにはハイブリッドのようなかたちで緑地を考えていかなければならないと思います。

野城: たとえば、風景100選とか、名木100選など、私有地であっても、公共の財として位置づけるような試みがありますね。

横張: まさに、そうした取り組みを増やしていくことが必要でしょう。官と私の間にあるようなものを、どう位置付けて活用していくのかが、今後の大きな課題といえます。

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4. 都市緑地を再生する「農」と植栽の多様性

4. 都市緑地を再生する「農」と植栽の多様性
―体験農園の試み、プラントハンターを感嘆させた江戸の植栽

横張: 私は、これからの新しい都市緑地のあり方を考えるうえで、「農」が重要なキーワードになっていくのではないかと考えています。「農業」ではなく「農」。なぜ「農地」ではないのかというと、産業の現場としての農地と区別するためです。つまり、農地とは別に、農作物や花卉を都市住民が育て、かかわる場が、これからの都市緑地の一つの解になるのではないかと。

野城: 確かに、都市近郊の農地というのは、税制で何とか保っているものの、疲弊しているし、風景としての魅力も失いつつあります。一方、市民農園となると、これはこれで雑然とした風景になってしまう傾向がある。何かいい手はないのでしょうか?

横張: まさにそうですね。ただ最近では、制度的にも柔軟になってきていて、面白い試みが始まっています。たとえば、体験農園。これは、法制上は農地なのですが、土地を所有する農家の営農を都市住民がお手伝いするというかたちで都市住民を受け入れる試みです。実際には、農家の方が作付け計画を立て、農器具やプログラムを用意するというもので、いうなればインストラクター付き市民農園といえます。ただ法制上は農地なので、手伝いに参加する人は、その対価として農作物を得るのです。現在、練馬で実施している体験農園は非常に好評で、鎌倉等遠距離から毎週通ってくる方もいるほどだそうです。

それから、さきほど一般の市民農園を雑然とした景観とおっしゃっていましたが、まさにそうなんですね。一方で、ヨーロッパのクラインガルテンは景観的にも美しいものが多い。クラインガルテンを日本語では市民農園と訳すことがありますが、まったく別物です。そもそもクラインガルテンは個人の庭を集めたもので、花や芝生を植えて、農作物などまったく植えられていないものも多い。むしろ、地域住民が緑を慈しむ場として存在しているのです。

これまで日本の農政は、クラインガルテンのような施設は農地として認めてこなかったんですね。小屋を建てたりフェンスを設けたり、トイレを設置したりすることついては、絶対にできないわけではないけれど、非常に消極的です。でもこれからは、クラインガルテンのような、体験したり交流したりする緑地も、新しい都市の農として認めていくべきではないかと思っています。

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野城: なるほど、それは面白い視点ですね。
それからもう一つお聞きしたかったのがまちの植栽について。江戸時代から、日本ではどのような樹木を植えてきたのでしょう?

横張: 江戸時代にはかつて、現在の豊島区の東北端、駒込の北に、植木屋が多数集まる染井村と呼ばれる地があって、江戸の一大園芸樹木供給地となっていました。この染井から生まれた有名な品種がソメイヨシノです。代表的な植木屋であった伊藤伊兵衛一族が、エドヒガンとオオシマザクラを掛け合わせてつくったものとされています。

この染井は、江戸のみならず、アジアを含めた園芸植物の一大集積地でもあったといいます。それを物語る逸話に、幕末に染井を訪れた植物学者でプラントハンターの一人、ロバート・フォーチュンが狂喜乱舞したという話が残っています。プラントハンターとは、イギリスのヴィクトリア王朝時代に、植民地を含め、世界中から薬用植物や珍しい植物を掻き集めた人たちのことで、彼らが集めた植物が、たとえばロンドンのキューガーデンに集められていました。そのプラントハンターをして、「世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない」と言わしめたという。その後、染井の植木屋は、都市の拡大とともに川口へ、さらに大宮へと移っていきました。

野城: それだけ多様にあった品種が、残念ながら現代の都市には引き継がれていないようですね。

横張: おっしゃる通り、高度経済成長期以後、[[街路樹]]などを大規模整備するため、公共空間に大量に植栽をするようになってから、挿し木で増やせるような大量生産に向く樹種が採用されるようになり、品種が減ってしまった。ソメイヨシノも大量生産に向き、成長も早いのが特徴です。しかし、遺伝系が一系統なので、今後、大量枯死することが懸念されています。今こそ、かつての染井で実現されていたような、植栽の多様さを、地域特性を基盤に見直す必要があるでしょう。

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5. 大丸有の公園緑地の果たす役割

5. 大丸有の公園緑地の果たす役割
―サステイナビリティとレジリエンス

野城: ところで、大丸有のような都心部の緑地はどうあるべきだとお考えですか?

横張: 大きく分けて二つの役割があると思います。
一つは、まちのサステイナビリティへの貢献です。つまり、[[ヒートアイランド現象]]対策として風の道やクールスポットの確保など、現在、まさに問題となっている省エネに貢献するための緑です。あわせて、実際に温度を下げるほどでなくても、都市の中にきめ細かく織り込まれた緑が果たす、心理的な効果についても忘れてはなりません。

野城: 下町の朝顔や風鈴にもそういう役割があったわけですね。

横張: まさに風鈴の音が涼を呼ぶといった江戸の知恵を、今日の都市にも生かしていくべきです。

野城: 確かに、さまざまな建築計画などを見るにつけ、定められた緑被率は守っていても、緑の質が低いと言わざるを得ないものも存在していますね。

横張: 一方、いわゆる東京の下町として有名な谷根千(谷中・根津・千駄木周辺)は住宅が密集し緑被率はものすごく低い。ところが実際にまちを歩くと、軒先に鉢が置いてあったり、垣根があったり、実に緑豊かに感じられる。ああいう発想が大事なんだと思います。

野城: 緑の質というのは、緑比率だけで測れないと。具体的には、どんな意識が必要だと思われますか?

横張: 「節約しない」というのが一つの考え方ではないでしょうか。節約しない、というのは我慢を強いるのではなく、もともと電気や空調をつけなくても楽しめるものにしておくという意味。節約というのは長続きはしませんし、楽しくないからです。むしろ、電気や空調を使うことのほうが快適ではない、というまちをどうつくるのかという視点です。ハードウエアだけの問題ではなくて、イベントを含めたソフトウエアが果たす役割も大きいと思います。

ちなみに、緑地というのは竣工時から時間を経て、どんどん変化していくものです。ですから、そこに時間軸をとり入れて、進行形で時間を読み込んでいけるようなデザインを施す必要がある。日本庭園など、まさにそうやってつくり込まれてきたものです。だからこそ、読み解く楽しみがある。まちや緑を読み解く楽しみというのは、知識と経験を積んだ年配者ならではの特権です。大人が集まる大丸有には、ピッタリではないでしょうか(笑)。

もう一つ、都心の緑の役割として重要なのが、レジリエンス=復元力。もともと緑というのは、状況に合せて変化していったとしても、復元力や回復力を備えたものですよね。そうした復元力というのは、今回の震災復興においても、非常に重要な視点だと思います。

今までの都市計画は、どちらかといえば二元論で進められてきた。オフィス街か住宅街か工場地帯かといった具合に、用途地域を決めるなど白黒つけてやってきたわけです。でもこれからのまちづくりでは、中間の部分、グラデーションの部分をもっと増やしていくべきなんじゃないかと思います。そのグレーの部分こそが、社会や自然の変化に対する揺り戻しをうまく吸収し、復元力へとつなげていくができるのではないかと考えています。さきほどの「農」やクラインガルテンというのも、まさにそういう役割を果たすものでしょう。

野城: これから都市の人口が縮退していくなかで、郊外の住宅地などは、徐々に空き地になっていくわけですね。そのときも、無理に宅地のまま維持しなくても、空地をその土地に有用なポケットパークに転用するとか。

横張: そういう柔軟な発想が必要でしょう。私がいる東大・柏キャンパスがある柏市では、昨年から「カシニワ情報バンク」制度というのを始めました。カシニワとは、「柏の庭」と「貸し庭」の二つの意味を込めたネーミングで、市が土地を貸したい所有者と、利用したい団体の仲人をするというもの。意外にも貸したいという人が多いのですが、市が間に入ることで、信頼して貸すことができるからでしょう。こうした、フレキシブルな土地利用のあり方が、今後ますます求められていくのではないかと思います。

一方で、就労のスタイルももっと多様でいい。朝、カシニワでキュウリを収穫してから、午後から都心に出勤するなど、大丸有のような都心で働く人に、新しいライフスタイルを先導してつくっていってほしいと思います。カシニワのモデルを、大丸有でつくり、体験した人々が住んでいるそれぞれの地域で本格的に始める、といったショーケース的な取り組みも十分考えられます 野城:[[丸の内朝大学]]でも、農業クラスはとても人気で、すぐに埋まってしまうそうです。それだけ潜在的なニーズがあるということでしょうね。都市における「農」の役割に、今後さらに注目していきたいと思います。

――本日はお忙しいところ、ありがとうございました。

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編集部から

東日本大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田の名勝「高田松原」で、350年前に防潮林として植えられた松のうち、1本だけが奇跡的に残ったという。この松をモチーフに、復興のためのシンボルマークがつくられた。多様な役割を担う都市の緑が、ときに人々を勇気づける役割も担うのだと気づかされました。

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