2012/12/18
クリスマスを目前にして、年の瀬を感じるには、ほんの一歩早い冬の一日、「気が早い」と思われながら、年の変わり目を考えてみよう。天体の運行と共に息づいてきた人類の暮らしが見えてくるかもしれない。
冬の日は、短い。
誰しも、昔習ったことを懐かしく覚えているだろう。地球は自転軸を傾けて公転しているために、季節によって太陽の昇る高度が変化する。最も低くなるのが、《冬至》。今年は12月21日がその日に当たる。日の出から日の入りまで、昼の時間が最も短くなるのもおよそこの日だ。
そうは言いながら、12月も中旬に入って日の入りは僅かずつ遅くなっていることに気付いているだろうか。実は、日の入りは冬至を待たずに12月の上旬に最も早く、日の出は冬至を過ぎて1月の上旬に最も遅い。この一見複雑な日の出入りの変化は、昼の真中、太陽が南中する時刻が、日々移動していることを考えると、解りやすい。毎日定刻に一年間の太陽の軌跡を追ってみると、南北に大きく動くばかりでなく、東西(移動方向の前後)にも位置が変わっていく様子が分かる。"昼"という時間帯全体が、前後にずれながらその長さを変えているのだ。
この、天球上の太陽の動き―その実態は、地球の不均等な運動―を正しく理解することが、私たちの暮らしを刻む暦の基本にある。
間もなく、冬至からおよそ10日の後に、私達は新年を迎える。この"年の始まりの日"には、どんな意味が有るのだろうか。
そもそも、"年初"は暦によって、つまり地域や時代によって様々に取り決められていた。古代ローマの暦は、《春分》の月、すなわち今の3月を年初としていた。その名残は、9月から12月までの英語名が、9月=Septem-ber (第7の月)、10月=Octo-ber (第8の月)、11月=Novem-ber (第9の月)、12月=Decem-ber (第10の月)となっていることにも密かに留められている。18世紀のフランス革命で誕生した共和国は、メートル法をはじめとする合理的な単位系の制定を試み、暦や時計も10進法で統一しようとした。この革命暦は極めて短命に終わったが、共和制が宣言された《秋分》を年初として設けられていた。
一方、東洋ではどうだったかと言えば、今でも1月ほど遅れた旧正月を祝う風習を持つ地域もあるように、俗に"旧暦"と呼ばれる日本の太陽太陰暦では、《二十四節気》の内 "正月中"である雨水を含む月の一日(朔)が、年初となる。中華圏での春節も同様だ。
古代中国まで遡ると、陰暦は冬至を計算の起点として定められていた。太陰太陽暦では、ずれていく季節と月の間を閏を置いて補正していたが、太陽の運行の起点である冬至と、月の運行の起点である朔が一致する《朔旦冬至》を大切にして祝ったのだと言う。
江戸時代に改暦を為した天文学者の祖・渋川春海が「圭表」という装置を使って、柱の落とす影の長さから太陽の動きを計測している様子が、小説『天地明察』にも描かれている。太陽が最も低くなる冬至の日、影は最も長く伸びる。
春分を起点としていたローマの暦も、やがて冬至を基準にした年初に移行される。ユリウス・カエサルが制定した太陽暦《ユリウス暦》も、冬至と朔の一致を起点としているという計算もあるらしい。ローマでは、太陽神ミトラスが信仰を集めていた。弱まった太陽が復活し、再び高く昇り始める日、そんな意味も込められたのかも知れない。この冬至のミトラス祭は、やがてキリスト教の普及と共にクリスマスと一体化して、今も12月を彩っている。
古代ローマにはヤーヌスという神がいた。ヤーヌス神は、出入り口の神、扉の神であり、前後に二つの顔を持つ。古代10か月しか無かった暦を12か月に改定する時、ローマ人は挿入する月に来し方を見詰め、行く末を見遣るこの神の名を与えた。「ヤヌアリウス」つまり"ヤーヌスの月"を意味する年初の月がJanuaryだ。
今私達が祝っている1月1日というタイミングには、天文学的に言えば格別の意味は無い。ユリウス暦から、現代世界で採用されている太陽暦《グレゴリオ暦》に修正された中で、自ずとそうなった、と言うしかないようだが、しかしそのルーツは、昔から大切にされてきた太陽の運行なのだということを、その"標の日"である冬至に合わせて語ってみた。
東京大学大学院にて電波天文学を学び、野辺山やチリの望遠鏡を用いて分子雲進化と星形成過程の研究を行う。
国立天文台では研究成果を利用する人材養成や地域科学コミュニケーションに携わり、2012年からは現職で広く学術領域と社会とのコミュニケーション促進に取り組む。修士(理学)。日本天文学会、天文教育普及研究会会員。東京都出身。
自然科学研究機構 国立天文台 広報普及員
(社)学術コミュニケーション支援機構 事務局長
天文学普及プロジェクト「天プラ」 プロジェクト・コーディネータ