シリーズ知恵ブクロウ&生きものハンドブック

ツリーライフと秘密基地の里山『ガンコ山』ー持続可能な立て篭もり戦略ー

ツリーライフ。それはツリーハウスを造ったり、山をきれいにして、山菜や自然のものを食生活にしたり、自然エネルギーだけで暮らしたり、棚田を復興させてお米を自給自足したり、狩猟を学んだり、森を拠点に自然とつながるライフスタイルだ。時には自然の中でヨガを楽しんだりもしている。

少年時代の秘密基地

幼い頃、僕らの秘密基地は東京都東村山市と埼玉県所沢市にまたがる狭山丘陵通称八国山にあった。八国山は僕らの山だった。八国山とは、七国山で出てくるトトロの森の舞台になったあの山である。

そこは僕らにとって、大人になるための挑戦と修業の場であった。ドジョウやカエル、エビガニ、ヘビもいて、僕らはバーチャルではなく生き物とは何かを学んでいった。小学校5年生になって秘密基地を作り始めた。

ふもとの萱場(すすき場)を利用してストローハウスのようなものを作り、各人のハウスとハウスはススキのトンネルで結ばれていた。そこでは、日々、罠づくりや弓矢づくりなどの修行が行われていた。学校にはもちろん行くが、家は飯を食って寝るためのものに過ぎなかった。つまり基地が僕らの生活の場だったのだ。

ガンコ山のはじまり

ガンコ山は1998年、戸数10戸しかない集落の共有地の荒れた山林を預かり誕生した。その地は、この地元の集落の共有林、共有財産である。
当時、高齢化した集落の人々は、ガンコ山がこの山林の整備をしてくれるのを望んでいた。彼らが自分達の故郷の山を守っていきたいという気持ちは当然であろう。間伐遅れの密集したスギ林、極相化した雑木林、入り込む潅木、つる類、侵入する竹、これらが僕たちの前に、立ちはだかっていた。

だからこそ、僕ら昔の秘密基地少年たちの魂に火がついた。僕らは、誰も寄り付かない山林だから、秘密基地にする価値がある。この山に魂を入れ直してやろうと思い、荒れた山林の再生戦略が決まった。僕らは、昔の秘密基地少年達のロマンに支えられ、"森に立て篭もって生き残る(森をつくりながら森と共生し、自立自給自足する)"ことを目標とした。

戦略づくり

僕らは、ツリーライフという新しいライフスタイルの拠点として活用することにした。まず、寝泊りできる拠点が必要で、それがツリーハウスという概念の小屋であった。木を支えにデッキを作って小屋を乗せるオリジナルのツリーハウスを考えた。まだ、ツリーハウスという言葉が普及していない時代の話しである。

基地遊びの面白さは、非日常空間に立て篭もるというところにある。 すなわちこれが自立自給自足ということである。大人になる利点は、一層そのための知識を拾い、スキルを磨くことができることだ。ガンコ山に「立て篭もる」ための戦略が練られた。「今、そこにある資源の最大活用」こそが、外部に頼らない立て篭もり自立のための道だと定められたのだ。

山、森にあるもの―水、木、土、陽、風―それらを最大限活用すること。森の主役は木だ。それを活用すること!!ツリーハウスという概念がぴたりと当てはまった。木とツリーハウス― 秘密基地にとってなんという素晴らしいマッチングだろう。木を材料に木にサポートされた家。ツリーハウスが大人の秘密基地への扉を開いたのだった。

第一号ツリーハウスの誕生

1998年2月、僕たちは、第一号ツリーハウスを試行錯誤しながら、南房総岩高山の麓に作りはじめた。これが、ガンコ山ツリーハウスヴィレッジの名前の謂れである。ツリーハウスの小屋組みそのものは、日本の在来軸組み工法で、地元の老大工さんから習いながら作った。その時、「日本の文化ってすごいな」そして「日本は木の文化なんだ、これを守っていかなけりゃ」とあらためて思った。

森、山暮らしの拠点としてツリーハウスを選んだのは、大規模な造成や基礎を必要としないからというのも大きな理由であった。僕たちの基地にとっては、決してツリーハウスを造ることが目的でない。ツリーハウスは、森とつながり寄り添うためのありがたい実用的な道具であり、森や自然の中で感動や楽しみや恵み、学び、そして、時に厳しさを味わうツリーライフの重要なアイテムのひとつという位置づけだ。

森に立て篭もるという少年時代の秘密めいたロマンを実現するために、ツリーハウスを完成させた僕らは、いよいよ水、エネルギー、燃料、排泄対策、食糧と本格的な持続可能な立て篭もり戦略を次々と実行へ移していく。

持続可能な立て篭もり戦略の実行

まずは、水の確保である。水がなければ、一日でも日常生活に不便を感じる。水を確保するために、昔昔、集落が利用していたごく小さな沢水を集めた水源を利用することを集落から許可を得た。もし、これがなければ僕たちはガンコ山ツリーハウスヴィレッジの建設はしなかった。今、集落は町水道を利用しているから、この水源は使っていなかったのである。この水源の復帰に取り掛かった。それは林道から山道を何百mか奥に入ったところにある。延々と山奥からパイプを引き、ガンコ山まで水を引いてきた。

この時、手伝ってくれた大工の原老人が、この水がパイプから出た時、しみじみと「水ってえのは、ありがたいもんだな」とつぶやいたのをはっきりと覚えている。自然との共生と言えば、エコロジカルっぽいが、少年のロマンそのままに立て篭もりの秘密基地を造るという気持ちだった。基地専用の水資源を確保した後も次々とその戦略を実行していく。

次はエネルギー電力である。最初から電力会社とは契約する気はなかった。秘密基地は自立したもので外部に依存してはならないというルールを信奉していたからだ。ならば利用できるのは、自然エネルギーしかない。その中で、僕らは太陽光発電を選んだ。やっとソーラーという言葉が普及し始めた頃である。その時代には、住宅の屋根に置いて電力会社と契約するいわゆる売買電契約しか用途はなかった。誰も電力会社と契約しないで、バッテリーを持たせて独立式のソーラーパネルを放置山林の陽あたりのよい斜面に置くなどという発想はなかった。

面白いと言って、格安でソーラーパネルを譲ってくれる会社があった。助成金を出すという機関も出てきた。バッテリーは、電動車椅子会社が寄付してくれた。そのうち大手のパネルメーカーも一緒に自然エネルギー学校を開こうとうことで、パネルの寄付を申し出てきた。

これで、ツリーハウス、独立水源、自然エネルギーというガンコ山のライフスタイルの原型ができた。
トイレは少量の水で汚れだけをとるコンポスト式を自分で考えた。材木屋さんからもらってくるおが屑の力でコンポスト化して、すべて土に戻してしまうのだ。天ぷら油を精製してできるバイオディーゼルを燃料とするお風呂も完成させた。

こうして自立のためのインフラ戦略が比較的早く進んだのに対して、森林整備のペースはゆっくりとしか進まなかったし、さらに米の自給までに移る時間は実に時間がかかった。ガンコ山を基地化するためのインフラ整備の一方、僕らの前には、依然として荒れた森林が立ちはだかっていた。これをどうするか僕らは考えていた。

ガンコ山の森林整備

第一段階=生活の進行リズムに合わせた間伐
第二段階=インターンシップや体験プログラムによる積極的計画的間伐除伐

森林の再生戦略は、基本的に木を使う生活をしていくことにより、間伐や除伐を進めていった。これは、ツリーライフの原点である。森が荒れているということは、切らなさ過ぎの状態であるから、木を切っていくことが、整備の中心である。

やたらに切ってもゴミになって邪魔になるだけなので、消費して切っていくことが一番良いのである。森の基地として機能するには、燃料が必要だ。まず一番消費するのが燃料としての薪だ。燃料はガスでも石油でもなく、薪となった。頑なに薪を使うことにした。そして生活の進行と共にツリーハウスの原料や、テーブルやイスや階段や土留めなどいろいろな構造物、土木製品が必要となってくる。

それと連動して木を切っていくことになった。計画して切る方式ではない生活リズムに合わせた森林再生が基本となった。チェンソーで木を切る技術は、一週間や二週間で会得できるはずがない。

何十本、何百本、一年二年と切り自然に、倒したい方向に確実に切ることができるようになってくる。だから、余計に森林の再生はゆっくりとしか進まなかった。ガンコ山の森林再生は生活のリズムに合わせて木材を使うということが基本であった。ツリーハウス造りや、自然エネルギーの設備拡充と共にツリーライフは進行していき、間伐材や除伐した木が燃料として使われていった。

2004年ごろ大きなパブリックスペースがほしいということに なった。30畳の大きなハウスを高床式で造ることになった。工法は丸太で日本在来の軸組み工法というユニークなものが選択された。

そして、何十本という杉の木が冬に切られた。半年間乾燥のため寝かされ建築に取り掛かった。計画から1年半後「高床式バンブーハウス」が竣工した。ガンコ山の生活の進行と共に、木を切り森林を再生していくことを象徴した建築であった。

ゲスト向けにツリーハウス造りの体験も行われるようになり、そこでも自有林の間伐材の需用はあがった。その頃になると多くのゲストがガンコ山を訪れるようになり、経済的にもガンコ山は独立し始めてきた。今、僕らはツリーライフで得られた様々なノウハウや楽しみをおすそ分けというカタチで体験提供している。

ガンコ山体験に参加したのがきっかけで、ガンコ山の建設や作業に関わる人たちも少なくはない。ずいぶんと経ってから、我々は積極的計画的な除伐間伐を始めた。それは環境系のインターンシップ学生を受け入れてからであった。彼らは学校で山作業の基礎訓練は受けていたので、指導すれば作業は、効率よく安全に行うことができた。また、その後、ツリーライフの体験プログラムの一つ"じゅりんヨガ"でも、潅木や竹の除伐を行うことになり、定期的に山の整備が行われるようになった。

2012年じゅりんヨガの参加者たちは、ガンコ山と棚田を結ぶ竹やぶに埋もれていた山道(里道)の復興に取り掛かった。
彼らにより復活した里道は、ドリームロードと呼ばれ、ナチュラルシェードの気持ちよい散策道となった。"じゅりんヨガ"に参加して知り合ったカップルは、結婚という形で結ばれ、この道で二人は祝福の道を歩いた。まさにドリームロードである。
ガンコ山と棚田はドリームロードという1本の里道で結ばれるようになった。ここにガンコ山と棚田との一体化が完了した。ドリームロードの下には、まさに自然からの「恵」である棚田の世界が広がっていた。

棚田復活プロジェクト

2013年いよいよガンコ山は、当初よりの計画であった食糧自給自足の基本で、米作りに乗り出すことができた。放棄されて休耕田となっていた棚田復活のプロジェクトが始まった。この棚田にもう一度稲穂が垂れる姿を見たい。という地元の方のロマンに昔の秘密基地少年達は突き動かされた。

木や山のことはわかっても田んぼのことはど素人の僕らは、集落の翁達から習い機械も地元の人から借り米づくりに取り組んだ。2013年秋、お米が収穫できた。やっている僕らも地元の人も皆驚いた。なぜなら、難しいと言われる休耕田だったところに米がきちんと平田なみにできたのだから。重粘土の米はすごく美味しかった。
田んぼとともに、オタマジャクシや、イモリ、様々な〔いのち〕が戻って来た、ドリーム棚田。

今、2年目、ガンコ山は、さらにおいしい米を作ろうと奮闘中。4月、田んぼに水が入った。この景色を見ると 心が落ち着く。田んぼは日本人の心にとっての故郷なんだなと、つくづく感じる。ガンコ山は森を整備しながら棚田の方に下りていくというスタンスを貫いた。僕たちにとって森という生活拠点を、まず固めることが基本であった。ガンコ山が建設されて以来、棚田復興に着手するまでには、15年を要した。

そして、17年目を迎えている今、僕らはそれを守っていることに、誇りを持っている。昔の秘密基地少年のツリーライフプライド、ここに極まれり。
ガンコ山HP

平賀 義規
平賀 義規(ひらが よしのり)

ツリーライフの里山ガンコ山のマスター
1958年(昭和33年)生まれ。東京都東村山市出身。トトロの森のモデルとなった八国山の近くに生まれる。
幼少期より田んぼ里山の遊びに親しみ、小学生活最後の2年間に八国山で秘密基地建設に目覚め仲間と共に日夜立て篭もりに遊び暮らす。1998年この時の体験をイメージして、南房総の放置山林に「秘密基地」と「持続可能」をテーマにガンコ山ツリーハウスヴィレッジを建設し現在に至る。
著書に『じゅりんの書(2014年 ガンコ山文庫発行)』がある。
ツリーライフの里山ガンコ山
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