東京大学大学院医学系研究科修了、医学博士。同大学医学部附属病院等を経て現職。2003年に院内健康委員会(ヘルスケア・コミッティー)を株式会社化し、産学連携のもと、予防サービスの提供に取り組む。厚生労働省、経済産業省、自治体、医療保険者団体などの委員を務める。著書に「わかるとかわる―特定健診・保健指導」(カザン出版)など。
2013年6月に日本経済の再生に向けた成長戦略「日本再興戦略」が閣議決定されましたが、今年(2014年)、その改訂版のなかで「健康経営」を国家全体で推進するという内容が盛り込まれました。健康経営とは、企業の持続的成長を図る観点から、従業員の健康に配慮する経営手法のこと。健康への取り組みが従来のようにリスク管理や医療費削減といった内向きのものではなく、社会に資する外向きなものとして捉えられたことは、非常に大きな動きと言えます。いまや健康経営は社会への投資であり、日本経済の再生に欠かせない一要素なのです。
その背景には、超少子高齢社会に突入した日本の現状があります。年々、日本の平均年齢が上昇するなかで、労働人口の減少を背景に企業の定年延長が進むと考えられ、従業員の健康への配慮は必須となりつつあります。たとえば、40代前半と40代後半では、5歳年齢が上がるだけでその集団の心疾患の発症率は1.7倍にも増加します(厚生労働省人口動態統計)。つまり、従業員の健康に対して企業が積極的に働きかけなければ、日本の生産能力は減少の一途を辿ることになるのです。また、地域社会においても、病気や要介護の人が増えることはコスト増と労働力の減少を招き、社会的損失につながります。健康経営は企業の成長を促すだけでなく、地域社会の健全な機能を継続させるうえで欠かせない取り組みと言えます。
そうしたなかで近年、日本政策投資銀行およびヘルスケア・コミッティーによる「DBJ健康経営格付け」を皮切りに、各企業での取り組みが進むとともに、経済産業省と東京証券取引所による「健康経営銘柄」(仮称)の選定や厚生労働省労働基準局による健康づくりを進める企業の認定制度、大分県、横浜市での健康経営企業を評価する仕組みの検討が始まるなど、各省庁や自治体による動きが活発化しています。
しかし、現状は健康経営の本質を理解している企業はまださほど多くはありません。なかには、健康経営のことを、赤字を出さない健全な経営を意味するものだと思っている方もいるのではないでしょうか。また、社員の健康管理をリスクマネージメントの範疇でしか捉えていない経営者や、個人責任で取り組むものだという考えに囚われている方もいるでしょう。地方の中小企業で健康経営に取り組んでいる企業は、まだ一握りにすぎません。
最近、実際に健康経営に取り組んでみると、2〜3年ほどでメタボリック・シンドロームの社員が減ったという企業が現れ始めました。ただ、これまで病院に行かなかった高リスクの社員が積極的に受診するようになるため、一時的に医療費が上がることもあります。参考に、1万人規模の企業で年間十数名が心筋梗塞などの重症疾病を発症したが、うち3人に2人は1度も診療を受けたことがなかった、というデータがあります。つまり、健康経営を行うことで、生産性に大きく影響するような重大な病気の発症を減らし、貴重な人材の維持につながる可能性があるのです。
健康経営を広めていくためには、取り組みの効果を可視化することと、必ずしも短期的な効果が現れるとは限らないことから、健康経営に取り組む企業を社会的に評価し、経営者が取り組みやすいような仕組みを社会で用意することが大切です。
したがって、1社だけで取り組むよりも、業界単位で面的に取り組むほうが効果的です。その場合に、健康保険組合や全国健康保険協会(協会けんぽ)などの「データヘルス計画」を活用することが有効です。政府の成長戦略のもと、健康寿命の延伸を図る施策として掲げられた「データヘルス計画」は、健保組合などがレセプトや健診データを用いて、各企業の従業員の特徴を明示し、具体的な健康対策を進めやすくする仕組みです。したがって、大企業、中小企業ともに、自社の特徴を容易に把握することができます。
たとえば、営業職が多い職場では、メタボリック・シンドローム該当者が多い傾向があります。その背景には、食事の時間が不規則なことや、短い時間で手軽に食べられる菓子パンなどを摂る人が多いといった生活習慣が挙げられます。若い従業員が多い美容室では、朝食や昼食を抜く人が多く、甘い飲料で空腹をしのいでいたために、痩せているのに血糖値が50歳代並みに高いという状況が確認されました。このような特徴がわかると、経営者がアクションを取りやすくなります。上述の企業では、実際に職場として取り組みを始め、メタボの減少や血糖値が20歳代並みに下がったという効果を上げました。規模が小さい中小企業のほうが短期間で効果があがることもわかってきました。自社の立ち位置を業界、他企業との比較で知ることが、健康経営への第一歩になります。
また、エリアとして面的に取り組むことも有効でしょう。職場によってなりやすい病気やその背景となる生活習慣、環境が似ていることがわかってきました。そこで、職場環境を共有する大丸有のようなエリアで取り組むことには、大きなメリットがあります。
まず、健康経営のノウハウやデータをエリア内で共有することで、有効な対策を打つことが容易になり、互いに啓発し合えます。次に、駅から職場へのアプローチ、会議やランチタイム、宴席などを健康づくりのチャンスにしてしまいます。たとえば、エリア内の購買行動や移動歩数にクーポンやポイントを付与します。併せて、エリアの特性に合う健康情報、たとえば30代OLが受けると良い健診項目、長時間パソコンに向かうサラリーンが血圧を上げない工夫、といった情報を付加するなど、大丸有にいると気づかないうちに健康への関心が高まる仕掛けを導入することも可能です。
さらに、エリアで取り組めば、取引先やエリアへ訪れる人に対しても広く健康情報を発信することができます。このように外向きの健康経営の取り組みを進めることで、企業ごとに金利・保険料・税制などの優遇措置が付与されるだけでなく、建物の容積率の緩和や街が活性化するといったエリア全体が社会的に評価されることが期待されます。
健康経営企業であることが社会に認知されることは、大きなモチベーションにもなります。大分県で旗やのぼりを制作している太田旗店という中小企業の場合、協会けんぽが実施するデータヘルス計画とのコラボをとおして、自社の特徴を知り、社内で分煙を進めたり、健康アプリを活用するなどして健康経営を始めたところ、新聞やテレビなどで多く取り上げられるようになりました。社会的に評価されたことで、社員のモチベーションが上がり、これまで以上に皆が意欲的に仕事に取り組むようになったと言います。
大丸有というエリアでこのような取り組みが始まると、そこで働く人だけでなく、企業が参画することでさまざまな工夫や仕掛けを導入することが可能になります。健康経営ランキングや健康カフェなど取り組みを象徴するようなブランドをぜひ、大丸有から全国に発信していただきたいですね。
日常の仕事動線や生活動線の上で、無理なく継続的に取り組めるような仕掛けを通じて、このエリアに健康経営の文化が根づいていくことを期待しています。