東日本大震災で甚大な被害を受けた被災地・被災者に、私たちは何ができるのか―。その一つの試みが「丸の内朝大学」をきっかけに生まれた「ひまわりプロジェクト」だ。元気を連想させる花、ひまわりを復興のシンボルと位置づけて、関東などで市民が育てた苗を被災地に贈って被災者自身が育てていくというもの。7月初旬に宮城県名取市でひまわりが咲き始めた。ひまわりの生長とともに強まる被災地との絆。被災地で失われたコミュニティ再生にもひと役買う、ひまわりプロジェクトをレポートする。
「ひまわりが咲きました」。西松建設の平澤資尊(もとたか)さんが、写真とともにeメールで関係者に知らせた。「やりましたね」「うれしい」。次々に写真が転送され、喜びが広がっていった。このひまわりは名取市の美田園駅(みたぞの:仙台空港線)に隣接する「美田園花の広場」のひまわりだ。直径20mの花壇に約1000株のひまわりの苗が植えられ花が咲きつつある。近くの美田園第二仮設住宅に暮らす人びとが育てたものだ。
ひまわりは英語では「sunflower」、ギリシャ語由来の学名「ヘリアンサス」は「太陽の花」という意味で、オレンジや黄色の美しい花を真夏に咲かせる。花言葉は、素晴らしい人、あこがれ、熱愛など。
ひまわりプロジェクトは、関東圏の市民が苗を育て、被災地に無償で届けて人びとに育ててもらう取り組みだ。
人は花を贈るとき、感謝、祝福、慈愛、激励、慰みなどの思いを花に託す。このプロジェクトでも、花を贈るという行為が生むさまざまな効果を期待している。「被災地の緑化」「人びとの心を癒し、豊かにする」「子どもの教育」「苗を育てた人と被災地の人をつなぐ」「被災地内のコミュニケーションを生み、地域のコミュニティを再生する」。こうした幾重もの効果だ。
フラワービジネス大手の日比谷花壇グループの呼びかけに共感した人びとが集まり実現したひまわりプロジェクト。名取市だけではなく、仙台市では12の小学校にひまわりの苗や種が届けられた。その合計は約3000株になる見込みだ。
6月26日に苗の第一陣の贈呈式となる「ひまわりプロジェク in 美田園」が行われた。雨にもかかわらず、約200人の参加があった。苗を育てた人の代表として東京大学職員の池田恭子さんから名取市の小学生にひまわりの苗が手渡されると拍手と歓声が広がった。「私たちが一生懸命育てます。皆さんの思いやりに、感動しています」。隣接する仮設住宅の区長を務める農業の桜井久一郎さんが挨拶に立った。そして集まった人びとが苗を植えた。植物は人の心を和ませる。誰もがうれしそうだった。
名取市は仙台市に隣接する市で、人口は約7万3100人(10年末)。しかし震災では死者・行方不明者が約1000人にも上った。堤防を乗り越えて、住宅や農地、仙台空港を飲み込んだ津波の映像・写真を見た人も多いだろう。仮設住宅に暮らすのは、この津波を経験して助かった人たちだ。 50歳代の女性は一家で農業をしていた。震災の際には仙台空港の建物まで逃げて無事だったという。「狭い仮設住宅住まいになり気が滅入る。ひまわりを育てて生活で気分転換をしたい」と喜ぶ。プロジェクトでは、地域住民の参加も呼びかけた。近所に住む小学生の八田夏海(なつみ、12歳)さん、光岬(みさき、7歳)さんの姉妹は母親の香さんと一緒にひまわりを植えにきた。「ひまわりが好き。育つのが楽しみ」と期待する。
名取市長の佐々木一十郎(いそお)さんも参加し、苗を植えた。「私たち被災者は、決して一人きりでも、孤立しているわけでもありません。ひまわりの苗を育てていただいた多くの方の支えがあり、そして名取市民全体の仲間がいます。多くの皆さんの支えに感謝しながら、一緒に頑張りましょう。そして再建しましょう」と参加者に呼びかけた。
盛況となったイベントの陰には、多くの人びとの善意と努力がある。イベントの前日から当日にかけて雨の中、花壇を整備している人たちがいた。プロジェクトを支援する日比谷花壇グループの環境事業推進室の加藤仁さん、西松建設の平澤さんらだ。「気持ちよく花を育てていただきたい」。その努力が美しい花壇を生んだ。
美田園駅前の仮設住宅と花の広場は西松建設が土地を2年間無償で市に貸し出した。同社の近藤晴貞社長もイベントに参加して苗を植えた。土地の貸し出しはかなりの負担になるが、近藤社長は「地域社会あっての私たち。役に立ちたかった」と話した。
ひまわりプロジェクトは、エコッツェリア協会が運営する「丸の内朝大学」をきっかけにスタートした。4月4日〜6日の3日間にわたって開催された「コミュニティアクション for 東日本大震災」というミーティングだ。丸の内朝大学の運営に参加する都市設計プランナーの氏家滉一(株式会社都市設計取締役)さんも、このアクションにかかわった。
氏家さんは仙台市出身で、東京に仕事の拠点を置きながら東北の地域おこしにも取り組んできたが、多くの友人、親類が被災した。「誰もが被災地のため、東北のために何かをしたいと考えていますが、何ができるかわからない。ですから場を設け、話し合おうと考えました」。
氏家さんは日比谷花壇の越智正夫さんに参加を呼びかけた。越智さんは会社としても、個人としても、被災地のためにできることを探していた。そして提案した。「被災地と私たちがともに花を育てる取り組みをしませんか。私たちは花を育てることを手伝えます。花を通じてつながりが生まれるはずです」。この呼びかけに参加者から「苗を育てます」「種を配ります」と即座に多くの返事が返ってきた。この状況を見て、三菱地所設計で東北での勤務経験を持つエコッツェリア協会の村上孝憲さんが友人である西松建設の平澤さんに相談したところ、名取市と美田園の仮設住宅に紹介するアイデアが生まれた。人びとの善意の連鎖でプロジェクトが実現した。「志の高い方が丸の内朝大学にたくさんいて幸運でした」(越智さん)。
越智さんは、日比谷花壇グループで文化事業を担当する武山直義さんに相談した。武山さんは賛同して、「ひまわりプロジェクト実行委員会」を立ち上げるとともに、同社がひまわりの種を集めて提供し、育った苗をまとめて届けることにした。同社グループは「花育」という取り組みをCSR活動として実施してきた。植物を育てることをとおして、子どもたちの花への興味や知識を高めながら、自然の大切さを学び、心の成長につなげようという取り組みだ。「花は人と人の絆。贈る人と受けとる人の間にコミュニケーションや感動を生むツールです。結婚式でも、日常でも『ありがとう』とか『頑張って』などのメッセージと一緒に花は贈られます。震災復興でも花がさまざまな役割を果たせるのではないかと思いました」(武山さん)。
「ひまわりプロジェクト」の呼びかけにさまざまな人が応じた。日比谷花壇が花を提供する高齢者介護施設では、職員、入所者が丁寧に花を育てた。キョーリン製薬ホールディングスでは、栃木県にある2つの研究所で約600株を育てた。300名の社員が持ち回りで世話を行った苗は、7月8日に仙台市内の小中学校に運ばれた。同社の小川覚三さんが5月の防災フェアで、ひまわりプロジェクトを知って社内に参加を呼びかけた。「当社は『健康と笑顔のある社会の実現を目指す』という目標を掲げています。ひまわりプロジェクトは、社員の気持ちも届くのではないかと期待しました」という。
東京大学でもプロジェクトへの協力が広がった。同大職員の池田恭子さんの頑張りによるものだ。池田さんは東洋文化研究所で、国際政治学を研究する田中明彦教授の秘書を務める。池田さんは研究を手伝う中で沖縄の歴史に関心を持ち、2010年秋に丸の内朝大学で『ニッポン再発見の旅シリーズ』第1弾〜沖縄編〜の講座を受講した。その縁で「コミュニティアクション for 東日本大震災」のミーティングに参加した。
池田さんは、毎年約10万人が集まる東大の五月祭で種を配ることを提案した。ところが五月祭で活動するにはサークルが必要だった。田中研究室の学生の大半は留学生だが、プロジェクトを紹介すると「ぜひやりたい」と快く引き受けてくれた。田中教授も賛同して顧問になり、サークルを4月下旬に立ちあげた。代表は台湾、副代表は中国の留学生。「東日本環境支援部−ひまわりプロジェクト東大支部」というサークル名は中国語でも意味が通じる名だ。
ひまわりの種が届いたのは五月祭の5日前。約10万粒が大きな袋に入り、小分けのパッキングをしなければならなかった。池田さんとサークルメンバーの留学生らが呼びかけると、1日20人ほどの学生や職員たちが袋詰め作業に参加し、7000袋が用意できた。あいにくの雨模様となった5月28、29日の五月祭だが、配布ボランティアによって5000袋が配られ、残りは協力団体や被災地周辺の大学などに送られた。
その後、6月に600株ほどの苗を回収した。栃木県の中学校からは「クラス全員で大切に育てました」という手紙とともに苗が届いた。東大で改修工事を行ってきた会社からのものもあった。東大内にある職員の児童を預かるけやき保育園でも、子どもたちが水をやって育てた。
「頑張ってください」と温かいメッセージプレートをポッドに差し込んだもの、肥料が与えられているもの、倒れないように添え木がそえられたものがあった。「どの苗も愛情いっぱいで、大切に育てられたのが一目でわかり、感動しました」と池田さんは振り返る。
池田さんは田中明彦教授やサークルメンバーとともに、名取市美田園での苗の贈呈式に参加した。「被災地の皆さんが笑顔で植えていたのがうれしかった」と話す。田中教授は、留学生たちの善意に感謝した。「『日本のために何かをしたい』と活動する留学生が多く、池田さんを支えてくれました。研究も生活も大変なのにうれしかった」と言う。池田さんは苗を現地の人とともに植えながら、「みんなが一緒に喜んでくれてよかった」と話した。国籍、年齢を超えて、花が人びとを結びつけた。このプロジェクトをとおして人と人との心のつながりが生まれ、広がっている。
しかし、名取市の復興への道のりは長そうだ。花の広場に隣接する美田園第二仮設住宅には、津波に襲われた名取市沿岸部の下増田、北釜地区の住民が入居した。これらの地区は震災前には有名なメロンの産地だった。ところがいまは荒れ果てた土地だ。道路の復旧、瓦礫などの片づけが進む一方で、一部まだ海水が残っている農地もある。土壌に海水が染み込み、農業の再開は難しい。
仮設住宅で暮らす人たちの意見も分かれているという。津波への恐怖から「二度とこの場所に住みたくない」「移住したい」と言う人がいる一方で、「また家に戻りたい」「農業を再開したい」と話す人もいる。区長の桜井さんも農業を営んでいたが、自宅は壊れ、畑は海水につかったまま。「先が決まらない。地区が元どおりになるのは難しいでしょうなあ」と淋しがる。
ここに住む50歳代の女性は、家族で農作業をしながら名取市内の会社に勤めていた。震災当日は会社で一夜をすごした。家族は無事だったが自宅は津波で壊れ、農地も復旧のめどが立たず、会社も休業中だ。「何も決まっていない。落ち着くまで、時間がかかるでしょう」と嘆く。
東日本大震災の被災地では、名取市と同じように先の見えない復興への多くの苦悩があるだろう。即効的な解決策は見当たらない。そのため、周囲は被災地が復興を遂げるまで、息長く支え続けることが必要だ。花を贈るという行為でも、被災地を支えられる。「早く咲いたひまわりが見たいね」。仮設住宅に身を寄せる人びとが話し合っていた。
「ひまわりプロジェクト」の事務局では、"花によるつながり"を継続的な活動にすることも検討している。秋にはコスモス、春先には菜の花など、季節ごとの植物を提供していく意向だ。毎年、種をとりそれを翌年植えるというように長く続く取り組みにしたいという。ゆくゆくはこのプロジェクトで育てられた草花をバイオマス資源として利用して、地産地消のエネルギーを生み出すことも可能かもしれない。
「花で被災地がいっぱいになれば、人の心が和み、つながりが生まれます。それが被災地を支える力になると思います」。日比谷花壇の武山さん、越智さんはこうした願いを胸に、プロジェクトを進める。東京大学の池田さんは近々、サークルメンバーとともに美田園花の広場を訪問する予定だ。「被災地のことを学び、私たちができることを考えたいです」。
丸の内から生まれた人びとの善意の輪が、被災地を支え、広がり始めている。この取り組みを大切に育てたい。そして、それが復興につながることを信じたい。
丸の内朝大学の"コミュニティアクション for 東日本大震災"ミーティングの当日、日比谷花壇の越智さんの周りに多くの人が集まったことを思い出す。震災で荒れた土地を一面に覆うひまわりの花々を被災者の皆さんと見てみたいと思った。花を媒体にして感動をわかち合った交流は、必ずや復興・再生という大輪の花を咲かせるだろうと確信した。