大手町、丸の内、有楽町の町名は、今となってはすっかりお馴染みですが、ほんの150年ほど前までは、この地に町名はありませんでした。
それには、江戸時代の江戸のまちのあり方が大きく影響しています。
江戸時代、江戸のまちは大きく3つに分かれていました。
大名・旗本・御家人が暮らす「武家地」、お寺や神社がある「寺社地」、商人や職人が暮らす「町人地」です。このうち、「町名」が付けられていたのは「町人地」だけでした。「武家地」や「寺社地」には、「町名」がなかったのです。
大丸有地区は、江戸城のお膝下にあって、広大な武家屋敷が軒を連ねた「武家地」にありました。つまり、大丸有地区には「町名」がなかった、というわけです。
なお、この地に「町名」はありませんでしたが、「通称」はありました。
江戸時代の切絵図(携帯用の地図)には、この地を描いたものとして、「大名小路 神田橋内 内桜田之図」(嘉永2[1849]年)、「御曲輪内 大名小路絵図」(慶応元[1865]年)があります。
このことから、この辺りが「大名小路」と呼ばれていたことが窺えます。
ちなみに、「小路」とあるように、もともとは通りを指していたものと思われます。それが、いつしか大丸有周辺一帯を指すようになりました。
「大名小路」の名は、JR有楽町駅前から東京駅前を通って、大手町方面へ走る通りの愛称として、今も人々に親しまれています。
大丸有地区に「町名」が付けられたのは、明治5(1872)年のことでした。
きっかけは、税の取り立てです。
江戸の「武家地」は幕府のもので、大名・旗本・御家人は幕府から土地を拝領していました。いうなれば借地。「武家地」は全て非課税でした。
明治新政府は、御一新で政権を担うようになりましたが、財政基盤が脆弱でした。そこで、財政を安定させようと、土地をもとに税を徴収することを計画したのが、明治6(1873)年の地租改正です。
ですが、行政上の地名がなければ課税もできません。そこで、地租改正の前提として、すべての土地に町名が付けられるようになったのです。武家地だった大丸有も同様です。
こうして明治5(1872)年、「大手町」と「有楽町」は町名として晴れて産声を上げましたが、その姿形は今とはかなり異なっています。一方の「丸の内」はというと、地図にその名が見られるようになるのは、もう少し時代が下ってからのことになりますが、その話はまた次回。
たかが「町名」、されど「町名」。まちの名前を辿ると、まちの歴史が見えてきます。
大丸有の町名の変遷の歴史を、今後も引き続きお届けします。