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かねて世界中で進んでいる脱炭素化の動きに加え、戦争など様々な社会情勢の変化の影響により、近年では先進国であっても電力の安定供給が大きな課題となっています。そのため、これまで以上に安全で、環境負荷が低く、生産効率の高いエネルギーの研究開発が求められる機運が高まっています。
こうしたエネルギー事業に関する研究を行う施設のひとつに「電力中央研究所(以下、電中研)」があります。長年にわたって日本のエネルギー関連研究をリードしてきた電中研では、どのような研究開発に取り組み、これからの社会にどのように貢献することを目指しているのでしょうか。電中研の主任研究員である西美奈氏(エネルギートランスフォーメーション研究本部 エネルギー化学研究部門)へのインタビューを通して、これからのエネルギー事業のあり方を考えていきます。
電中研は、日本の電気事業の礎を築き「電力の鬼」とも呼ばれた松永安左エ門によって創設された電気事業の中央研究機関です。1951年の創設以来、常に最先端の電気事業関連研究に取り組み続てきました。「社会経済研究所」「原子力リスク研究センター」「エネルギートランスフォーメーション(EX)研究本部」「グリッドイノベーション(GI)研究本部」「サステナブルシステム(SS)研究本部」の5つの研究体制の下、多岐にわたる分野の知見・技術の融合と柔軟かつスピーディな研究開発を推し進めるため、多様な分野の研究者が集まっている点も特徴のひとつです。
そんな電中研で、再生可能エネルギーを活用した水電解による水素製造技術の研究開発に取り組んでいるのが西美奈氏です。水素関連研究は、これからのエネルギー事業の中でどのような意味を持つのでしょうか。西氏は次のように説明します。
「再生可能エネルギーは低炭素電源ですので、その発電電力を利用することで社会の脱炭素化が促進されます。そのため、現在電力を利用している分野ではどんどん再生可能エネルギーを導入することが望ましいです。しかし一方で、『お天気まかせ』の言葉通り、太陽光や風力発電では、電気が必要な時に必要な量を必ずしも発電しなかったり、電気があまり要らない時に大量に発電したりと安定供給に課題があります。特に後者の場合、せっかく作った電気が余って捨てることになってしまう事象が一部で発生しています。余った電力は余剰電力と呼ばれ、蓄電池を使えば貯められますが、まだ非常に高価ですので、季節や時間帯によってまちまちの再生可能エネルギーの余剰電力に対してどのくらいの設備容量を導入すべきかなど議論中です。また乾電池でご経験があると思いますが、長く置いておくと電力が散逸します。一方、再生可能エネルギーを用いて水や水蒸気電解を行って、水素としてエネルギーを蓄える方法が提案されています。水素はガスボンベなどを用いての貯蔵が簡単で、時間が経っても漏れ出たりすることは殆どありません。また、水素は燃焼させると熱エネルギーにもなりますので、従来は電力を利用していなかった、例えば化石燃料を燃やして熱利用する分野で、水素を燃料として使用することで、間接的に再生可能エネルギーの電力を利用でき、低炭素化が促進されます」(西氏、以下同)
こうした再生可能エネルギーの余剰電力を水素に変換して貯蔵、利用する方法を「Power to Gas(パワートゥーガス)」といいます。特に水素は燃焼時に二酸化炭素を排出しないため、カーボンニュートラルの重要性が増す世界において、近年注目を集めるエネルギー資源となっています。2050年のカーボンニュートラル実現を目指す電中研も水素関連研究に注力しており、2022年度よりPower to Gasの心臓部とも言える水電解セル(※)の実験設備を導入し、水電解装置の耐久性の見極めや、より効率的な水素製造方法の追求に関して研究を行っているそうです。
※水電解セル:水を電気分解して、水素と酸素を製造する装置。再生可能エネルギーを用いて製造した水素は"グリーン水素"とも呼ばれる
"グリーン水素"は、世界では既に実証、商用段階にありますが、日本国内で導入が進むと、私たちの生活にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
「例えば、産業分野において製鉄業や窯業で化石燃料を用いる代わりにグリーン水素を用いれば脱炭素に貢献できます。また、最近では水素の輸送方法について、既存の都市ガス導管に水素を注入すれば、他のどの輸送方法よりも低コストで需要地まで水素が輸送可能という試算結果を得ました。ガス導管への水素注入により、需要家のガス利用機器からの二酸化炭素排出量を減らすことが可能ですので、現在水素混合ガスや100%水素の使用が可能なガス利用機器の開発が、国内外で鋭意進められています。その他にも水素を燃料とする燃料電池自動車の普及など、水素は産業、家庭、運輸、発電に至るまで多くの分野の脱炭素化に貢献できる可能性があります」
もちろん、社会に浸透させるためには、技術的な成熟だけではなく、既存のインフラとの連携や場合によっては法律や規準の改定などの調整も必要になります。ただ、いずれにせよ、脱炭素社会やエネルギー自給率向上の実現には、"夢のエネルギー資源"と呼べる水素の社会実装が重要な意味を持っているのです。
西氏が取り組んでいるのは基礎研究の領域であり、この研究だけですべてが完結するわけではありません。ここで得たデータや知見は、その後の応用研究や商業展開の礎となるものです。基礎研究は長期的に取り組んでいくものですが、研究者の立場としては、一つのテーマに集中したいのでしょうか。それとも次々と新しいテーマに取り組んでいきたいものなのでしょうか。自身の研究に対するスタンスについて、西氏は次のように話します。
「目先の研究は楽しいですし、この研究のみに邁進し続けたい思いはありますが、電中研の研究員としては5年後、10年後の社会がどうなっているかを考え、そこからバックキャスト的に新しいテーマを創出しないといけないと毎日思っています。ただ、現在取り組んでいる研究も10年後になって『やっぱり止めよう』と思うとは考えにくく、今後ますます必要になるものだとも思っています」
電中研が取り組む研究は、大手電力会社からの給付金、国家プロジェクトの受託、企業や大学との協業などを通じて行われています。西氏の研究も全国の電力会社が出資しており、研究で得られた成果はまず電力会社にフィードバックされることになっています。ただし電中研は、電力会社をはじめとした企業のための研究施設というわけではなく、あくまでも中立の学術研究機関として存在しています。そのため、西氏が言うように、広い視点で未来を考えながら研究に取り組むことが大切になるのです。
このように電中研の役割や実施する研究のあり方を語る西氏ですが、小学生の頃から研究のように、考えることそのものを職業にしたいという思いがあったそうです。
「小学生の頃、母から将来の夢を聞かれて『哲学さえできれば職業は何でもいい』と答えました。その時の母の困惑した顔は今でも覚えていますが(笑)、その願いは研究に取り組むことで叶っていると思います」
そんな思いを抱いていた西氏は、大学生の頃、もうひとつの夢だったドイツ留学を経験します。学部卒業後にはドイツのエアランゲン大学の流体力学研究室に進んで修士号と博士号を取得。ドイツで7年半過ごして帰国した後、東京大学の工学系研究科で固体酸化物形燃料電池の研究に携わり始めました。その後、現国立研究開発法人産業技術総合研究所、慶應義塾大学、明治大学にて研究・教育活動に邁進する一方、出産と子育てのために一時的に研究の現場から離れますが、2017年に電中研に入所し、再び研究者としての道を歩み始めました。紆余曲折がありながらも常に研究に注力してきた西氏。そのモチベーションはどこから湧いてくるのでしょうか。
「まだ知られていない現象を自分で見つけて発表し、それを多くの人が取り入れて各研究で活かして下さることが大きな喜びです。例えば、私が最も長く取り組んだのは博士課程の頃の流体力学の研究です。当時、流体力学のはじまりと言えるような基礎研究を改めて行っていたのですが、数十年から百年以上前より当然のことながら計測機器が発展していて、私の場合は運良く素晴らしい恩師、優秀な研究者、技官の方々に協力いただき、新しいことを数多く見つけられました。取組方法や考え方と共にそうした新発見を論文に書き記して誰かに引用してもらった時に、とてもやりがいを感じます。できることなら、100年後でも引用されるような論文を書きたいと思っています」
こうした言葉からもわかるように、西氏にとっての研究は仕事であると同時に趣味のような存在でもあります。インタビュー中には「ずっと研究のことを考えていたいくらい」「水電解実験で水素がボコボコしているのを見ているだけでもワクワクする」「もう一度人生をやり直すとしても同じような道を歩みたい」とも話し、言葉の端々から充実感を垣間見せてくれました。
最後に西氏は、自身の研究を含め、電中研の取り組みの意義を次のように語りました。
「電中研の取り組みは大手電力会社の給付金に支えられているところが大きいので、電力会社の要求に寄り添う研究をすることが大事です。ただし、もとを辿ればそのお金は一般の方々の電気代ですので、最終的には一般社会の皆さまが幸せになるような研究をしなければならないといつも思っています」
長らく日本では「当たり前に安定的に使えるもの」として存在してきた電気ですが、東日本大震災のような災害、戦争のような社会情勢の変化、脱炭素実現のためのエネルギー供給方法の見直しなど、複数の要因によって「当たり前」の存在ではなくなってきています。しかし、この電気がどのように作られているのか、そして、エネルギーシステムの変革がどのように議論されているのかについてはあまり知られていません。電中研の取り組みや、西氏のような研究者がどのようなアプローチで研究を行っているのか。それらに目を向けてみることで、これからの環境問題やエネルギー問題に向き合うためのヒントをつかめるはずです。