JA全農 成清一臣理事長
JA全農 成清一臣理事長
JA全農が農林漁業成長産業化支援機構(A-FIVE)と共同で出資して設立された「株式会社ピュアディッシュ」の千葉県の食品加工工場が、10月から本格稼働を開始しました。これは、日本はもとより世界でも類を見ない真空低温調理の加工工場であり、生産から流通、消費の現場までを大きく変えるポテンシャルがあると考えられています。現在はメニュー開発とともに1日に1000食程度の生産規模で、共同商品開発、試験販売を目的に操業していますが、今後、需要の変化を見据えながらではありますが、段階的に投資を行い、来年度には2万4000食/日の生産量まで拡大することを目指すそうです。
真空低温調理自体は、30年以上前に原理が確立し、調理機器の販売も行われています。日本には1980年代から導入が進み、現在ではホテルや病院などで広く使われているもの。技術的には新しいものではなく、いわゆる「発明」とは言えないかもしれません。しかし、JA全農が生産・流通・消費の現場と将来を見据えて取り組んだ事業であり、その意味で「イノベーション」であると言えるでしょう。今回は、ピュアディッシュの加工工場のアウトラインを概観するとともに、このイノベーションが与える社会的なインパクトを考えてみます。
8月末、ピュアディッシュの加工工場の内覧会が開催されました。これは関係者、特に外食産業、流通の業者に向けて催されたもので、生産規模や体制、安全性を確認するとともに、真空低温調理の可能性を見せ、今後の取り扱いを検討してもらうのが狙いでした。
真空低温調理は、素材と調味料を入れたパッケージを真空にし、100度以下の温度で調理するというもの。細胞膜が壊れないため、素材の味がしっかり分かるという特徴があります。肉も68度以下で調理すればタンパク質変性が起きず、ジューシーな仕上がりに。すね肉などの固い肉でも柔らかく調理することができるそうです。
もうひとつの特徴は、少ない調味料で味付けできるという点。真空で密閉するために味がしっかりと素材に浸透します。塩分を控えたい場合にはぴったりの調理法。ピュアディッシュでは、煮卵のような単品から、肉じゃがやシチューのような料理まで、多様な料理に対応しているといいます。
内覧会では大勢の来場者が分散して工場内を巡回し、興味深くラインを見学していました。真空低温調理の工程は、下処理、真空包装、加熱処理、急速冷却となっており、それぞれに専用の調理機器が用いられます。加熱処理は「スチームコンベクション」という機器を使いますが、これだけ大型の製品が並んでいる例はあまりなく、もっとも注目を集めていました。
内覧会では試食も行われています。筆者も試食しましたが、しっかりと出ている素材の味に驚かされます。例えば肉じゃがなら、じゃがいもとたまねぎ、肉がそれぞれきちんとした味の輪郭を保っていて、その上で肉じゃがという料理として完成しているとでもいえばいいでしょうか。これを食べると、普段食べている肉じゃがが、いかにも"もやっとした"味であるようにすら思えてくるほどでした。
ここまでのおいしさになったのは、長年真空低温調理を行っている、株式会社イートピアの三田敬則シェフが調理指導を行っているためです。JR東日本フードビジネスの駅中店舗で展開したジビエカレーやジビエバーガーなどでも監修に協力しているシェフで、素材ごとに加熱処理をするなど細やかな調理方法でこの味を実現しているそうです。
今回、ピュアディッシュの加工品の取り扱いを、すでにJR東日本フードビジネスが決めています。会場にはその他大手の外食産業チェーンの担当者が来ており、前向きな姿勢を見せていました。
ある担当者は味とともにオペレーション上のメリットがあると指摘。「小ロットで発注できるので、セントラルキッチンを持つことのできない中小の外食産業チェーンにとっては非常に便利に使えると思う。また、現場では大規模な調理器具は施設が不要になるため、さまざまな出店形態が可能になるだろう」とし、例えばキッチンスペースが一坪程度の小さな店舗の可能性を挙げました。
また、三田シェフとともに日本ジビエ振興協議会の藤木シェフもメニュー開発に協力していることもあり、ジビエを使ったメニュー展開もあります。別の大手担当者は「真空低温調理による味のレベルが高いことがもっとも評価できる点だが、ジビエを簡単においしく調理できるなら使ってみたい」と話していました。
続く9月4日にはJA全農、成清一臣理事長による説明会が開催され、ピュアディッシュに対するJA全農のスタンスが語られました。
そもそもピュアディッシュが立ち上がったきっかけは、ジビエ振興に努める日本ジビエ振興協議会の代表、藤木シェフとの出会いであったといいます。一貫して畜産畑でキャリアを積んできた成清理事長(当時代表専務理事)が、2010年から長野県須坂市で綿羊の飼育実験に取り組んだ折に、羊肉の有効活用のために藤木シェフの協力を仰いだことに始まります。
「日本の畜産の問題のひとつは、多様性が欠如していること。輸入トウモロコシに依存することなく、新たな食肉の利用の可能性を探りたかった。また、山と畑の中間層の藪を羊の放牧スペースにすることで中間山地の鳥獣被害対策にもなると考えた。綿羊飼育には大変な困難も多かったが、藤木シェフ、三田シェフに出会って真空低温調理を知り、これは良いものだと、広く世間に伝えなければならないと思うようになった」
成清理事長が、真空低温調理にほれ込んだのは「無添加であること」「規格外産品の活用ができること」という二つの理由がありました。藤木シェフも「農業生産の現場では、有機農法などが高く評価されるのに、加工の現場で添加物が入ってしまうのは何かおかしいのではないか」と指摘しています。
「おいしいものが無添加で作ることができるということは大変な魅力。また、JA全農が音頭を取って、無添加の食品加工ができれば、味はいいのに見た目が悪くて出荷できない規格外品を活用し、農家に還元することもできるだろう」
しかし、その一方で、成清理事長が「JA全農は大きな船みたいなものだ。安定はしているかもしれないが、氷山が目の前に出現したら、舵を切れずにぶつかって沈没する」と側近にこぼしたように、JA全農が"何か変わったこと"をやるのには、大変な困難が伴ったそうです。
「拠点となる加工工場をゼロから作るところまでは踏み切れなかった。その余裕も度胸もない(笑)。しかし、ちょうど千葉県本部にある加工場が稼働を停止していたので、それを転用することで、スタートを切ることができた」
今後は、受注状況を見ながら、段階的に投資を行い、「ゆっくりと広げていきたい」と慎重な姿勢を示しています。現在では、2015年8月に2回目の投資を行い、生産規模を拡大する予定です。
ピュアディッシュというJA全農の新しい取り組みは、いまだマスコミの注目度は高くはなく、水面下で動いている程度のものなのかもしれません。しかし、その潜在的なインパクトは相当に大きいと考えられます。成清理事長にそう問うと「長期的に見なければ(社会的にインパクトがあるかどうかは)分からない」とはしつつも、さまざまな可能性を語ってくれました。
◇規格外品の活用と地方の活性化
「まず、農業生産の現場の規格外品の活用の道が開ける。これは地域活性化に良い影響を与えるはず。もちろん、当初は千葉の周辺から取り寄せるが、いずれ全国で活用できる可能性もある」
◇福祉施設との連携による地域活性
「地方活性化でもうひとつ期待できるのは、全国各都道府県に必ず1つはある福祉施設との連携だ。ほとんどの福祉施設には真空低温調理用の機器が揃っている。ピュアディッシュが、各地の福祉施設の仕事を奪うのではなく、指導することでおいしい調理法が確立し、現地の野菜を活用しながら現地の雇用をも拡大できるだろう。流通の川下をJA全農が用意することで、安定した雇用にもつながるだろう」
◇"板前レス"の可能性とアウトバウンド
「真空低温調理のパッケージは、飲食店の現場では温めるだけで提供できるため、シェフや板前が不要でもある。外食産業では深刻化している調理士不足の解決の一助になるだろう。また、板前がいなくてもきちんとした料理が出せるということは、和食の海外展開でも利用できると考えている。国によって加工品の輸入ができないところもあるが、すでに海外展開の模索も始めている」
ピュアディッシュ創設は、成清理事長の号令一下で進められたもので、いわば「トップダウン型」のイノベーションです。その成功の秘訣を尋ねてみました。
「ひとつは"遊び心、出来心"(笑)。羊を始めたのも、そんな気持ちだった。それがあったからこそ、人との出会いが生まれ、いい仕事につながっていく。そして、組織としては、リスク回避をしっかりと行うことと、反対する人たちに対して、十分に手当てをするということ。この2点につきるのではないかと思う」
このイノベーションの成果が出るのは来年以降のことでしょう。また、表だって取りざたされるものではないかもしれません。しかし、ピュアディッシュが与えるソーシャルインパクトは、川上から川下まで、相当なものがあると期待できます。また、構造改革を迫られるJAグループ全体にあって、今回の取り組みは大きな一石を投じた格好でもあるのではないでしょうか。今後のJA、JA全農の活動に大いに期待したいと思います。