8,11,17
<2日目>
宮崎ひでじビール(延岡市)→都農ワイン(都農町)→かぐらの里(西都市)→有田牧畜産業(西都市)
▼ひでじビール
2日目からは新井氏と宮崎の企業を訪問・視察する巡礼の旅が始まります。
まず、最初の訪問先の延岡市・ひでじビールへ。延岡市は県北部にあり、宮崎市から車で1時間半。海岸沿いに神武天皇が東遷の旅に出船したという伝説の残る美々津などを眺めながら北上します。
ひでじビールに着いたときはあいにくの曇り空でしたが、ひでじビールの代表的ビール銘柄「YAHAZU」の由来となった行縢山(むかばきやま)の矢筈の瀧が煙った雲の中に浮かび上がる幽玄な光景を見ることができました。
出迎えてくれたのは永野社長。工場や施設を見て回りながら、ひでじビールの歴史や課題を語ります。
ひでじビールは全国で地ビールが盛り上がった1990年代に創業したものの、地ビールブームの衰退とその後の不景気なども相まって、一時は廃業の危機に。しかし、酵母が生きる環境から見直し、長年独自にノウハウを積み重ね、少しずつ成果を出してきたことを惜しみ、運営会社が撤退する中、従業員が株式を購入するエンプロイー・バイアウト(EBO)を実施して会社を存続させ、永野氏が社長の任に付きました。
「麦芽を発芽させるノウハウは、実は大手企業しか持ってない、門外不出の秘密。私たちは海外のウィスキーの文献に当たるなど、手を尽くしてようやく5年で自分たちで創ることができるようになりました」
と当時からの苦労を語る永野氏。県産農産物にこだわって作った「YAHAZUビール」。これは宮崎県内のお店でしか飲むことはできません。
「YAHAZUビールは宮崎県を応援するためのツール。宮崎県の県産材を使うとコストは高くつくし、売上を伸ばすにはたくさん売ったほうがいいに決まってる。でも、そういうことじゃないんだと思っています」(永野氏)
また、「農援プロジェクト」の支援を受けて開発し、アメリカでヒット、その後2017年のワールド・ビア・アワード「ワールドベスト・スタウト&ポーター」部門で最優秀賞を獲得した「KURIKURO(栗黒)」は、受賞後日本での売上も倍増。1本1000円弱ですが、買って帰る人が増えたといいます。こうして見学しながらさまざまなエピソードを聞き、永野氏がビールにかける、宮崎県を元気にしたいという思いをひしひしと感じる一行。出荷前工程では、従業員のみなさんが、瓶を宝物のように白手袋で扱っている姿を見て、その思いの深さに感心することしきり。
課題を聞くと「仕込み室が小さいことが問題」と永野氏。
「6000キロリットルのタンクはあるが、これを6回も回さなければならず、効率が非常に悪い。窯が一番問題なんですが、これを変えるには1億以上のコストがかかる」
ビールの輸送コストも問題で、この削減のために生樽はペットボトルのものを導入、ワンウェイ輸送を始めたのだとか。また、従業員の間で、社が掲げるストーリーを意識し続けるようにすることも問題だとか。
これを聞いた新井氏からは「人が集まる仕組みを作ると良いかもしれない」と、サイボクハム(埼玉)や、伊那食品(長野)で、テーマパークのように工場が会社に人が楽しみに集まっている例を紹介。
「外から人が集まることで、常に従業員が『外の目』を意識するようになります。それが、会社として外にどう向き合っているのか、自分がどう向き合えばいいのかという意識を育てることにつながるんですね。イベントで集めるのもいいですが、常に人が来ること、従業員の方々がそこに触れるような機会を作ることも大切。これは経営者が考えるべきことかもしれません」(新井氏)
見学終わりには、工場付属の売店で、ここぞとばかりにビールを購入し、次の視察先へと移ります。
▼都農ワイナリー
ワイナリーを訪れて話を聞くと、そのユニークネスがだんだん明確な輪郭を持って立ち上がってきます。生食用のキャンベル・アーリーをメインにしている点ももちろん珍しい。しかし、自分たちのやりたいことをやりたいようにやるという、その姿勢・哲学こそが、そのユニークネスの源泉になっていることに気付いたとき、きっとあなたのワインの飲み方はガラリと変わるはず。
というようなことを感じさせたのが都農ワイナリーの訪問です。案内してくれたのは工場長を務める赤尾誠二氏。若い頃、交換留学制度でオーストラリアでワイン造りを学んだこともあり、独自の哲学でぶどう作り、ワイン造りに臨んでいます。
「ブルゴーニュ風、カリフォルニア風......ワインを作ろうとするときに、作りたいと思うものに近づけようとして、ナントカ風の作り方をしちゃうことが多いと思うんです。でも世界ではそういうものを求めていない。オンリーワンこそ評価される。うちで目指しているのも、ナントカ風のワイン造りではありません。飲みたいもの、地元の人に喜ばれるものを造りたい」(赤尾氏)
もともと都農はブドウの適地ではありませんでしたが、昭和初期に篤農家の永友百二氏が工夫と研鑽を重ねて栽培に成功。現代のワインブドウにつながる基礎を築きました。都農ワインは、まちおこしを目的に1996年、第三セクターで設立され、都濃町と二人三脚で運営されてきました。しかし、レストランの設置等、業務の拡大を図るため、2016年にA-FIVE(農林漁業成長産業化支援機構)とAPカンパニーの出資を受けて株式会社化。「地域社会への貢献」をより明確にし、現在に至ります。
現在は年間24万本を生産。8割が都農町内に向けて販売され、2割が都市部向けのプレミアムワインとなっています。24万本のうち12万本がキャンベル・アーリー(!)。そのほか、カベルネ・ソーヴィニヨン、シャルドネ、シラー、マスカットベリーAなどを栽培しロゼ、スパークリングなども生産しています。
赤尾氏の説明を聞きながら、醸造現場を一巡した後、「ワインは天と地と人で作られるから、ここのワインはチキン南蛮に合う」と進められ、付属のレストランでチキン南蛮定食とともに、ワインのテイスティングをさせていただきました。「ワインブドウは痩せた土地」が定説で、施肥もしないのが常識。しかし、都農ワイナリーでは、土作りから取り組み、その土地にマッチしたブドウ栽培に成功。「テロワール」と呼ばれる、その土地の味を表現することに成功しています。
試飲したのは、キャンベル・アーリーのロゼ、マスカットベリーA、シャルドネ、ソーヴィニヨン・ブラン、シラーの5種。これだけ飲み比べると、作り手が考える方向性もなんとなく分かるもの。料理との合わせ方、飲み方などを、赤尾氏、レストランスタッフの皆さんと語り合って取る食事は最高の贅沢のひとつです。
ここでも見学後にワインをしこたま買い込んで、次なる視察先へ向かいます。
▼かぐらの里
次に訪れた「かぐらの里」は、ゆずの生産、加工を手がける農業生産法人。ゆずの果汁、ゆず故障、ゆずポン酢、ゆず塩など加工品がよく知られており、グローバルマーケットにも進出するほどに成長しています。しかし、その特質は、後に新井氏が「地域そのもの。感動しかない。奇跡に近い」と感想を述べているように、銀鏡(しろみ)の土地と分かちがたく結びついている点です。
代表取締役の濱砂修司氏によると、ゆずの生産は45年前に始まったものです。
「もともと銀鏡地区は林業で栄えたところで、林業の衰退が始まってから、新しい生産物にチャレンジしなければと、梅、こんにゃく、栗といろいろ試した中のひとつでした。そしてゆずがなんとか成功して、ようやく食べていけるようになったのが、銀鏡のゆずのはじまりです」(濱砂氏)
尾根の狭間で傾斜地が多く、日照時間も短いという銀鏡の土地柄がゆずの生産にはぴたりとはまり、世界でも類を見ない高品質のゆずの生産が可能に。加工品も始まった当初から百貨店を販路にしたため「手作りで良いものを」にこだわったことが奏功し、今も商談会では引く手あまた。もちろんここに至るまでには「20年は火の車だったし、ひどい目にもあった。一時は倒産という危機もあった」と濱砂氏は言います。
土地との結びつきを語るうえで欠かせないものに「銀鏡神楽」があります。銀鏡神楽は15世紀建立の銀鏡神社に伝わる夜神楽で、限られた家門にのみ伝えられる門外不出の性格もあって、観光客向けに公開されることがほとんどありませんでした。しかし、それが幸いし、今では古い形質を守る神楽として広く知られるようになり、ヨーロッパに招かれて演じることもあるのだとか。今、この舞手(祝子。ほうり)を支えているのが、かぐらの里の社員なのです。
「10年くらい前、地域の小学校が閉鎖になりそうになったときに、『山村留学』を始めたり、子供連れの社員を集めて、なんとか首の皮一枚つないで存続させたことがありました」(濱砂氏)
そこで集まった若手の社員が、今では神楽の舞手になっているのです。
「100軒足らずの集落で、人口ももう少しで下げ止まりになるかなと。徐々に人口は増えていますし、会社でも毎年2名ずつ採用しています。今パートも含め35名ですが、これが100名、200名にするのが夢。それだけいれば、儲けがどうこうというよりも、村が確実に存続できるということが見えてきました」(濱砂氏)
ゆず、神楽、山村留学が銀鏡の三本柱だと濱砂氏。かぐらの里は、その3本の柱を支えている、まさに地域そのものであると言えるでしょう。濱砂氏の言葉からも、その意識を強く持っていることが伺えます。
このほか、社内に「地域対策推進室」なる部署を立ち上げ、山の資源を使ったイベントや活動をスタート。「変わった人を呼び込もう」と始めたもので、筏を作ったり、パエリアを作る人が集まったそうですが、そのひとつに映画づくりもありました。「銀鏡の村、神楽のことを映画にして国際映画祭にエントリーしようと始まった」もので、Readyforでクラウンドファンディングも募り、見事プロジェクトが成立。現在も鋭意制作が続けられています(2019年公開予定)。
また、「銀鏡 山の駅」もかぐらの里で運営しています。これは道の駅的なお土産物を販売するお店であり、地区にたった一軒残った雑貨商店でもあります。
「村営だったんですが3年前に破綻。でも、村にないと困るものだし、おばちゃんたちが物を出せるところがあったほうがいいし、地区の人のコミュニケーションの場にもなるということで、かぐらの里で買い上げて、どうにかプラスマイナスゼロでやってます」
農業生産法人ですが、確かにこれは「地域そのもの」。
「常に地域のためにやる。そこに迷いがない、ゆるがない。ビジネスとして成功していることも素晴らしい点。まさにこれはひとつの奇跡というべきでしょう」
と新井氏も絶賛しています。
▼有田牧畜産業
この日最後に訪問したのは、「EMO牛」(えもぎゅう)で有名な有田牧畜産業です。「EMO」とは、「Earth」「Medicine」「0」から作られた造語で、畜産業では当たり前のように使われている薬を、まったく使わないという非常に珍しい飼育を実践しています。
「餌のことをよく知ると、どれだけ今の牛が薬漬けになっているかがよく分かる。うちは『安心安全』だけは日本一だと自信を持って言えるね!」
そう話すのは、同社2代目の社長の有田米増氏です。
同社では、宮崎、鹿児島、大分などで25カ所の飼育場を運営、7000頭の牛を飼育していますが、その安心安全の飼育の秘密は、餌にあります。今、日本で飼育される牛の餌のほとんどが輸入に頼っていますが、その原料のとうもろこしは輸入の時点で防虫剤・殺虫剤まみれ。だから有田牧畜産業が使うのは、日本で生産している稲わら、牧草、厳選された穀物だけ。しかも、牛舎を衛生的に保ち、薬を使わずに済むように、餌や敷わらに使う稲わらにはイースト菌を混ぜ、フンが中温発酵し、アンモニア発酵しないように工夫しています。だから牛舎は稲わらの懐かしい匂いがするだけでまったく臭くない。アンモニア発酵が起きる環境は臭気もひどく、病気発生のリスクも飛躍的に高くなります。だから防疫のために薬を散布しますが、こちらではその必要もないというわけ。
「うちでは一区画に8~10頭くらい入れるところ、半分以下の4頭しか入れないようにしているし、天井を透明にして日光が入るようにしているから、牛が牛舎にいても牛が歩き回って汗をかくようになっているんだな。牛も人間と一緒。じっとしている牛は、脂はつくかもしれないけど、そんなのメタボ、ニートと変わらない。歩き回って汗をかいた牛の肉はおいしさが詰まっておいしくなる」(有田氏)
牛舎を覗き込むと、よく見る牛とはちょっと違うことが分かります。まず鳴かない。好奇心旺盛で入ってきた人をよく見る。目つきが生き生きとしている。なるほど、健康な牛とはこんな生き物だったのか、と感動するほどです。
有田氏が考える「おいしい牛肉」とは、A5等級のような、サシが入った脂たっぷりの肉ではありません。
「人間は脂じゃなくて動物性タンパク質を食べて健康になって長生きするもの。だからうちが目指すのはA3くらいでいい。脂がのった肉を毎日食べるのはしんどいじゃないですか。手頃な価格で、毎日食べられる赤身の牛肉。食べて健康に長生きできる、そんな肉を提供し続けたい」
販売は基本的に直販です。焼肉屋などの店舗に卸しますが、デリバリーのバックヤードはすべて社内で行います。「宮崎でパッケージした肉は、東京の店舗に行って始めて空気に触れる」という販売環境なので、品質は担保されるうえに、中間マージンも発生しないため、価格も安価に抑えられています。有田氏は若いころから、あちこちに肉の訪問販売に出る中で、客が求める本当のニーズにたどり着くことができたのだと言います。「お客さんが困っていることに答えるのがプロ。高いものを作るばかりがプロじゃない」と有田氏。30年の昔から、顧客ニーズに答える「6次産業化」を肉牛生産の現場で実践してきたことになります。
新井氏は、有田氏がどうやって現在のような餌の使い方にたどり着いたのか、ポリシーを持つに至ったのかに興味津々で、有田氏の若い頃のエピソードを聞いて感心することしきりなのでした。
(「3日目」に続く)
「地方創生」をテーマに各地域の現状や課題について理解を深め、自治体や中小企業、NPOなど、地域に関わるさまざまな方達と都心の企業やビジネスパーソンが連携し、課題解決に向けた方策について探っていきます。