9,15
平安京の造営に大量の木材を供給するなど、豊かな自然環境を活かし、都の造成を支え続けてきた京都市北部。周山街道を北上し、紅葉の名所として知られる高雄を過ぎると、川端康成の小説「古都」の舞台にもなった中川集落が見えてきます。ここは、北山林業の発祥地として知られる「北山杉の里」。北山杉は、室町時代 応永年間(1394~1427)頃からつくり始められたといわれ、その皮を剥き加工してつくられる「北山丸太」は、千利休によって完成された「茶の湯」文化を支える茶室や、桂離宮、修学院離宮などの数寄屋建築の用材として使われるようになりました。
600年に及ぶ長い歴史を持つ北山丸太は、近年まで"床の間のシンボル"である床柱として親しまれてきましたが、昨今、人々の暮らし方が多様化し、和室離れが進む中、京都北山の文化と技術を次の時代に受け継ぎ、発展させていくためには新たな試みが必要です。「世界の京都・北山ブランド」創造ワークショップでは、素晴らしい文化をつくってきた北山の価値を最大化し、"北山ブランド"を醸成するべく、各分野の第一人者のゲストをお迎えし、3回にわたって考察していきます。
2018年10月30日に開催された第1回目のワークショップのテーマは、「京都北山の文化・歴史を知る」。金田章裕氏(京都府立京都学・歴彩館館長、京都大学名誉教授)、森下武洋氏(京都北山丸太生産協同組合理事長)をお招きし、北山の文化や歴史を紐解きながら、現在の動向や課題について知見を深めていきました。
今回ファシリテーターを務めたのは、日本の伝統工芸を世界に発信する"暮らしの道具"の専門店「WISE・WISE tools」を経営する佐藤岳利氏(株式会社ワイス・ワイス代表取締役社長)。
「杉というと、北海道から九州までほぼ日本全国で生産されていますが、その中でも、北山杉は他の林業地とは全く異なる歴史や文化、独自の製法などの背景があります。このワークショップでは、日本の地域ブランディングの成功事例を踏まえながら、"いかに差異化し、北山ブランドをつくっていくか"をテーマに、未来にどのような戦略を描き、行動を起こしていくかについて考えていきたいと思います」(佐藤氏)
「世界の京都・北山ブランド」創造ワークショップは、2017年11月より京都市が進めている「京都館プロジェクト2020」の取り組みのひとつとして実施されています。2018年3月に東京駅八重洲口前に構えていた京都市の情報発信拠点「京都館」が閉館し,2020年の東京オリンピック・パラリンピック以降の再開までの期間を「プロジェクト」の実施期間に位置付け展開していきます。
「新しい京都館では、3×3 Lab Futureのような人が交流できる空間を作り、京都に興味を持っていただいている方を対象により深く京都を学べる講座などを開催していきたいと考えており、さまざまな試みに実験的に取り組んでいるというのが現状です」(京都市産業観光局産業企画室 宮原崇氏)
そしていよいよゲストスピーカーのプレゼンテーションへ。最初に登壇したのは、京都府立京都学・歴彩館館長、京都大学名誉教授の金田章裕氏。人文地理学、歴史地理学を専門とし、日本古代中世の地理学研究やオーストラリア地域研究に従事するかたわら、文化的景観検討委員会の委員長として、京都北山の中川地区を中心とした北山林業地域が、国の重要文化的景観に選定されることを目指して活躍されています。
京都北山の歴史と文化を紐解いていく前に、まず京都の地形についての説明が 行われました。金田氏が最初に紹介したのは、平安時代に編纂された歴史書「日本紀略」。平安京が現在の京都市街に遷都された延暦13年(794年)の記述に出てくる「此の国山河襟帯」という言葉を取り上げてこう語ります。
「山河襟帯というのは、山が襟のように取り囲み、川が帯のように巡り流れて、自然の要害をなすという意味です。"京都は、山と川に囲まれたひとつの完結された世界"であるという認識が、古くから京都の人々の中には、非常に強くありました」(金田氏)
江戸時代中期、刊行京都図で一画期を築いた指折りの版元「林吉永」から出版された『新撰増補京大絵図』<貞亨3年(1686年)>。ここにも、"山と川に囲まれた小宇宙"である京都の様子が記されています。
「京都市街をぐるりと取り囲むように、東側には東山、北側には北山、右上に比叡山、左上に愛宕山があるのが見て取れるかと思います。そして、東側には鴨川、西側に桂川、南側に宇治川が流れている。まさしく山河襟帯という完結した世界を表現しているわけです」(金田氏)
次に紹介したのは、国土地理院刊行の20万分の1地勢図。右下の赤く塗られた部分が京都市街で、中川や杉坂をはじめ、画家・書家・陶芸家・能面打ちなど、多彩なジャンルにおいて後世に名作を残したスーパーマルチアーティストの本阿弥光悦が居を構えて活動した鷹峯(たかがみね)、京都御室仁和寺から京北町周山へと続く周山街道(国道162号線)など、京都北山周辺の地勢が記されています。
「周山の辺りは、古くは山国地方と呼ばれていて、平安京造営の頃から木材生産が盛んで、大裏の修理造営をつかさどる『修理職(しゅりしき)』と呼ばれる官職が、元々領地としていたところです。ここで生産される木材は、桂川の水運によって運搬されていました。つまり、川に流して都に供給していたというわけです。周山界隈は、中世にかけて、京都で最も重要な木材の生産地であり、供給地でもありました。主として運ばれていたのは、柱材や梁などに使う丸太など、比較的大きめの木材が中心だったと思われます」(金田氏)
江戸時代に入ると、「北山杉の里」である中川も、非常に重要な木材の供給地としての役割を担うようになります。しかし、「その運び方は、山国地方とは全く違った」と金田氏は話します。
「中川にも、桂川の支流であり、村の中央を流れる清滝川がありますが、木材や筏を流せるほど広い川ではなく、また谷の深い地形をしているため、水運は難しいものでした。しかし、鷹峯を経由する山道を歩いていけば、半日ほどで都まで一往復できる立地にありました。これは江戸時代、中川と京都市街を結ぶルートとして、最も使われていたとされる山道です。片道約10kmの道のりを歩いて運ぶわけですね。したがって、夫婦二人で担げるほどの木材が主として運ばれていました。その一方では、主に女性たちが、頭の上に台座のようなものを乗せ、垂木などの木材を歩いて運んだとも言われています。このようなことから、当時の中川の木材は、山国地方に比べて小ぶりのものが多かったと考えられます」(金田氏)
中川を中心として生産される北山杉の最大の特徴は、急斜面の山々に密植されていること。人々はその斜面に隣接したエリアに住居を構え、生活を営みながら、穂積みや挿し穂、下草刈り、伐採、磨き作業に至るまで、植林から約30年という長い年月をかけて徹底的に管理を行います。また中川で林業を営む人々は、栽培や加工だけでなく、商取引に至るまで担っていることも大きな特徴のひとつです。
中でも、良質な北山丸太をつくるために極めて重要なのが、「枝打ち」と呼ばれる作業。杉の成長期にあたる4~7月以外の期間に行われ、はしごを杉の幹に架けて枝まで上り、鋭利に研いだ鎌や鉈(なた)を使って、できる限り打ち跡が幹より出ないように、枝の付け根を幹に沿って打ち落としていきます。
「枝打ち職人は、1本の枝打ちが終わると、下には降りずに次の木に移り、黙々と枝打ちをし続けます。昼休み以外は下に降りないようです。この作業によって作られるのが、通称・一本仕立てという栽培法で、驚くことなかれ、1ヘクタールあたり6000本ほど育てると言われています」(金田氏)
もう一つの栽培法は、急斜面の山に囲まれた中川ならではの独特な育林方法である「台杉仕立て」。一つの株から数十本、多くて100本以上もの幹を育て、一つの株が一つの森のように更新を遂げていくことによって、植林の回数を減らし、収穫のサイクルを早め、緻密な木材をつくることができるのだそうです。
「江戸時代を前中後期に分けるとすると、前期の終わり頃には、すでに台杉を手入れしたと記されている文書資料があります。よって、それらはすでに磨丸太として出荷されていたことが分かります」(金田氏)
磨丸太とは、樹皮を剥き、乾燥させた杉の表面を磨き上げた北山丸太の基本形のこと。緻密で節のない材質と、滑らかで光沢がある美しい木肌が特徴的です。
「伐採する前年の冬、太りを抑えるために、枝を適度に打ち落とす「枝締め」を行います。そして夏場になると、杉の根元を切り、山の中で"立ち木"にかけて乾燥させる「本仕込み」の工程へ。これによって、木肌が引き締まり、表面の干割れを抑えるとともに、色ツヤや光沢を高められるのだそうです。本仕込みを終えたあと、水圧やたわし状のものを使った「磨き」に入ります。
「かつて、磨きは女性が非常に活躍した作業だと言われています。北山丸太にはさまざまな種類があり、伐採の2~3年前に箸状の材料を幹に巻きつけて絞り模様をつけた"北山人造絞り丸太"もあれば、人手が加わっていないにもかかわらず、波状やコブ状の凹凸ができたものもあって、それらは"天然絞り"と呼ばれています」(金田氏)
「近年で北山林業が最も隆盛したのは、1980年代です。日本中に数寄屋建築がつくられていて、ホテルの茶室などでも、磨丸太の需要が非常に多い時代でしたが、現在は一時ほどではないという状況です。重要文化的景観の場合、自治体とその価値を明らかにする研究者、そして地元の方々の同意がなければ、国に申請することができません。三者の足並みが揃った今、文化的景観検討委員会では、中川地区を中心とした京都北山の美しい林業地域が、文化財として選定されるその実現に向けて、活動を進めています」(金田氏)
「中川はまだ足を踏み入れたことのない土地であり、興味深く拝見させていただきました。このプロジェクトでは、現地視察の話も上がっていますので、興味のある方は交流会でお声がけください」と司会の田口真司氏は結びました。
北山の歴史や文化を知り、現在の動向を垣間見た前半。今後の課題を探るべく、ワークショップ後半では、京都北山丸太生産協同組合理事長の森下武洋氏によるプレゼンテーションと、ゲストスピーカー2名を交えたパネルディスカッションが行われました。レポートの後編では、そのもようをお届けします。