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ロンドン・ビジネス・スクール教授のリンダ・グラットン氏がその著書『LIFE SHIFT』(東洋経済新報社)で提唱し、今では一般的にも使われるようになった「人生100年時代」という言葉。人々の寿命の延伸に伴って人生設計の見直しが必要とされる時代にあって、40〜60代の"ミドルシニア"世代の中には「起業」を通じて新しいステップを選択する人が増えています。そこでエコッツェリア協会では、東京都インキュベーションHUB推進プロジェクト(※)を通じて、ミドルシニア世代の方を中心に起業のために必要な知識や心構えから事業計画の策定まで相談に乗る「ミドルシニア"マイ・スタートアップ"プログラム」を2019年度から開催しています。。今年度全4回のうちの第1回目は、株式会社ヒキダシの代表取締役であり、人と人をつなぐコミュニティ「昼スナックひきだし」のママとしても活動する木下紫乃氏をゲストにお迎えしました。「変化したい人を応援する」ことを自身の基軸とする木下氏からは、起業を考えるミドルシニア世代へ向けて多くのヒントを提供していただきました。
※東京都インキュベーションHUB推進プロジェクトとは、東京都が2013年度より実施する創業支援事業。高い支援能力・ノウハウを有するインキュベータ(起業家支援のための仕組みを有する事業体)が中心となって、他のインキュベータと連携体(=インキュベーションHUB)を構築し、それぞれの資源を活用し合いながら、創業予定者の発掘・育成から成長段階までの支援を一体的に行う取組を支援し、起業家のライフサイクルを通した総合的な創業支援環境の整備を推進します。
この日の講師を務めた木下紫乃氏
プログラムの冒頭、ファシリテーターを務める塚本恭之氏(ナレッジワーカーズインスティテュート株式会社 代表取締役)より、この取り組みの開催意義や狙いについて次のように説明がなされました。
「人生100年時代ではひとつの所属やキャリアで職業人生を全うすることは難しくなっています。最近ではサントリーの新浪剛史社長が『45歳定年制』と提言して話題になりました。日本でもアメリカでも起業する年代が最も多いのは40代なので、この世代が最も起業に適しているとも言えるんです。そこで、次の人生の選択肢として起業を選ぶ人たちに届くようなプログラムにしたいと考えて開催しています」(塚本氏)
続いて、ゲストの木下氏が登壇します。リクルートで社会人生活をスタートして人材育成分野を中心にキャリアを歩んできた木下氏は、47歳の時に「同世代の人々を元気づける事業をする」ことを目指して、ミドルシニア層のキャリア支援を行う株式会社ヒキダシを設立。同時に、「スナックひきだし」を開店して、ママとして多くの同世代の方の人生相談に乗りながら人と人同士をつなぐ活動を実施。スナックの運営で体験したエピソードや気づきを『昼スナックママが教える45歳からの「やりたくないこと」をやめる勇気』(日経BP)という本にまとめ、話題を呼びました。そんな木下氏がまず紹介したのは、これからの働き方を考える上で理解しておきたい3つの「たい」についてです。
1つ目は「何を実現したいか」で、いわゆるビジョンや理念、夢と言われるものですが、必ずしも社会的意義が大きい必要はなく、例えば「毎朝電車に乗りたくない」といった個人的なものでもよく、自分がこれから働いていく中で、今まで実現できなかったけど実現したい願いや思いを明確にすることが重要となります。
2つ目は「どんなスキルを活かしたいか」です。転職活動などの際にも用いられる一般的な考え方ですが、ここで大切なのは"自分には何のスキルもない"と思い込まないことです。
「この話をすると『私には特別なスキルなんてない』と言う人がいますが、20年以上も働いてきたミドルシニア層が何のスキルも持っていないなんてことはありません。ビジネスパーソンとして人とやり取りができることも立派なスキルなんです」(木下氏、以下同)
そして3つ目の"たい"は、「どんな人と働きたいか」というものです。これは同僚やパートナー、顧客の選択肢の自由度が低い会社員の場合は見逃しがちな視点ですが、独立・起業をする場合、一緒に仕事をする人やクライアントを自分で選べるので、こうした考え方をベースに働き方を選ぶこともできるのです。3つの"たい"はどれかひとつを重視するのではなく、2つを組み合わせるのでも、もちろんすべてを満たすのでも構いません。ただし、木下氏は「起業はあくまでもひとつの手段」であることを忘れてはならないと指摘しました。
「3つの"たい"はつまり"want"を意味しています。ですから、欲望を実現するための手段として起業という選択肢があると考えた方がいいと思います。そういう考えを持っておくと起業のハードルも下がりますし、具体的なアイデアも持てるはずなので、この3つのポイントについて自分がどう考えているかを振り返ってみてもらいたいと思います」
では起業をすると何が変わるのでしょうか。木下氏が挙げたのは意思決定者についてです。会社員の場合は組織の目的達成のために色々な人がルールを守りながら力を合わせていきます。ところが起業すると自分が中心になります。目的やルールも、収入を得るための戦略も自分が決めていくことになるのです。このように自由度が高まり裁量も増えることは一見いいことに思えますが、逆の視点で見ると「何事も自分で決断しなければならなくなる」のです。このような変化は収入の安定度にも関係しており、会社員の場合は自社の営業戦略に則って営業をする限り、成果が出せなくても突然給料が支払われなくなることはありません。しかし起業や個人事業主が同じ状況になると即収入が絶たれてしまいます。その代わり、起業や個人事業主は自分の意思や判断で戦略を転換し、商品やサービスを見直したり、顧客を変えたりすることができます。起業をするのであれば、こうした臨機応変さは欠かせないと木下氏は話します。
「私自身がそうでしたが、会社員は自分で決断することに慣れていないんです。だから、やってみてダメならやめようという判断がなかなか下せませんし、日々葛藤してしまいます。でも起業をするのであればそれを楽しめるようにならないといけませんし、試行錯誤しながらもフットワークを軽くすることが必要です。起業の成功のためにはこの柔軟性がとても大事だということを知っておいてください」
木下氏自身、企業当初に研修やセミナーを中心とした事業展開を行うも集客に苦戦した経験があります。そこで「私のようなどこの馬の骨かもわからない人間が研修やセミナーを開いても誰も来ない」「まずは私自身がミドルシニアが何を考えているのか知らなければ」と戦略変更を決意。マーケットリサーチも兼ねて、同世代が気軽に集いやすく、色々な人と出会える昼スナックを開業したのです。
「昼スナックを始めて学んだことはたくさんあります。例えば始めのうちはセミナーのような場でキチッと話をする方がいいと思っていたのに蓋を開けてみたら誰も来なかったのですが、ノリのような形でスナックをやってみたらたくさんの人が来てくれました。このことから自分で考えている『付加価値』は常に見直しが必要だと理解しました。もう一つ大事なのが、『自分が何者で、なぜこんなことをやるのかを見て人は私にお金を払う』と認識することです。スナックを始めた理由を話すと、応援してくれたり知り合いを紹介してくれたりする人がたくさんいます。その人たちはスナックという場所、あるいはコンテンツや商品だけではなくて、誰がどんな思いでやっているのかを理解し、それがいいと思ったから対価を払ってくれるんです。その状況をつくるためにも、自ら伝えていくことは大事だという点にも気が付きました」
こうした気付きから木下氏は次のような答えを導き出したと言います。
「私はミドルシニアを元気にするためだったら何をやってもいいぐらいに思っていて、それが私の『WHY』です。自分の『WHY』からズレていなければ、枠を決めずに機会をつくり、色々やってみることが大事だと思うようになりました」
何のために起業するかを思案し、起業することで起こる変化を理解したところで、次に考えるのは「顧客をどこから獲得するか」です。この問いに対して木下氏は「最初のお客さんは半径10m以内にいる」と述べた上で、その母数を増やすためにも半径10m以内にいる人の種類を増やすことが重要だと説きます。そのためのキーワードが社会とのつながりを資本として捉える「社会関係資本(ソーシャルキャピタル)」です。元来日本ではソーシャルキャピタルに対する意識は低いと言われていますが、年齢を重ねるほど社会とのつながりが弱くなってしまうこともあり、特にミドルシニアはソーシャルキャピタルを広げていくことが重要だといいます。そのためにすべきこととして紹介したのは「3つの居場所をつくること」です。
「一つ目は、会社や組織という多くの人にとって基盤になるような場所です。ここでは自分の得意が活かせて収入になる、やれること・やるべきことがある場です。ご飯を食べるための仕事という意味で私はこの場を『ライスワーク』と呼んでいます。二つ目はすぐに収入にならなくても、自分が学びたいことや得意なことを活かせそうな場で、興味を通じて集まる場です。勉強会、ボランティア、プロボノ、そして今日の集まりもこれに該当しますが、私はここを『ライフワーク』の場と位置づけています。三つ目は、収入や想いといったものは置いておいて、好きなことや好きな人を通じて集まる場です。例えばおやじバンドみたいなものでもいいですし、同窓会で久しぶりに会った友人とつながる場などです。私の場合は社交ダンスのクラブに入っているのですが、こういったところは楽しいだけではなく、気持ちがしんどいときの逃げ場にもなるんです。ここのことは『ライクワーク』と呼んでいます」
ライスワーク、ライフワーク、ライクワークの3つの場にいる人々は重複しづらいため、こうした場所が増えればその分「半径10m以内の人」が増えていくことになります。さらに自分自身も各場所で役割が異なってくるため、多面性が引き出されて新しい自分を発見できるという効果も期待できます。新しい自分が見いだされることは、それだけ自分が提供できる価値も増えるということであり、ビジネスにおいても生活においても得るものが多くあるのです。そのため、木下氏はこれら3つの場所を持つことを推奨しました。
さらに、氏からもう一つ強く推奨されたことがありました。それは「主催者になること」です。3つの場はあくまでも参加する側としての視点でしたが、自分自身が主体となって場をつくることもできます。例えば起業して会社を設立することも主催をすることになりますが、そこまで大規模な話ではなくても、勉強会や読書会、あるいは飲み会のセッティングなど小さな集まりを主催するだけでもいいと言います。なぜそこまで主催者になることを勧めるのか。それは次のように複数のメリットがあるからです。(1)自分の関心を多くの人に知ってもらえる
(2)一番多くの人とつながれる
(3)一番多くの情報が入ってくる
(4)自分の好きなようにやれるから実験できる
(5)ゲストとして呼びたい人を呼べる
顧客を増やすためには自分のことを知ってもらわなければなりませんし、人脈や情報を駆使する必要もあります。自ら主催する場に人を集めることでこれらのことが叶えられるようになります。さらに主催者となれば自分でその場のルールを決められるので実験的な取り組みも行いやすくなりますし、自分が注目している人を呼ぶ権利もあるので、ビジネス拡大のきっかけを掴むこともできます。もちろん労力も多く掛かりますが、「実が残るのは圧倒的に主催者」だと木下氏は説きました。
「私もスナックひきだしを主催することで、お客さんが勝手にお店や会社、本のことなどを宣伝してくれて、実際に研修やセミナーの仕事にもつながりました。また場があることで気になる人を呼んでイベントを開催することもできます。こうした経験からも、自分が主になるのは本当に得だと思っています」
最後に木下氏は、この日の話を振り返りって「起業は目的ではなく手段」「自分で決断を楽しむ」「提供価値を常に見直す」「起業する前から最初のお客さん探しは始まっている」「主催者になる」といった重要ポイントに触れた上で、明日からできることを紹介して講演を締めくくりました。
「今日会った人とつながって情報交換をしたり、今日聞いたことや考えたことを誰かに話す、あるいはSNSやブログで発信してみることから始めてみると良いと思います。特にSNSやブログを通じた情報発信はミドルシニアが最も苦手とするところなのですが、とにかく書いて蓄積していくことが大切です。『ちゃんと書かなければならないのはハードルが高い』『炎上が怖い』といった意見もありますが、実際のところそこまで皆は読んでいませんから(笑)、怖がらずに書いてみてください。そしてもう一つ大切なのが、違ったら止める勇気を持つことです。私たちの世代は石の上にも三年といったような呪いの言葉をたくさん掛けられたものですから、これまでの社会人生活で十分従ってきたはずなので、それはもういいんです。人生100年時代と言っても残された時間はどんどん短くなっているので、違うと感じたらすぐに止めて、どんどんやり直していきましょう。これは本当に大事なことだ思います」
自分から発信することで仲間づくりのきっかけを掴みながら、自分の考えを整理する。そして自らの取り組みを見直す癖を付け、ダメだと思ったらすぐに方向転換する。こうしたことは、ミドルシニア世代だけではなく他の世代にも大いに参考になると言えるでしょう。
講演を終えると、グループに分かれて参加者同士のディスカッションへと移ります。この日の参加者は今後起業を考えている人や実際に起業した人などが集まり、中には参加者同士のビジネスマッチングも行われていました。こうした様子を見た木下氏は、改めて発信することの大切さを説きました。
「今のミドルシニアは、むしろ自分から発信なんてするなと言われてきましたし、人生の後半になってから色々なツールが出てきた世代なので、上手く扱えずどうしても苦手意識があるんです。でも、仕事だって、例えば婚活だって、『相手を募集している』と言わないと周りには何も伝わらないんですよね(笑)」
また、あるグループでは、長く同じ組織に属することで行動がしづらくなってしまうといった観点が話題に上がりました。それを受けて木下氏は、思考や行動の癖を変えるためにも前述の通り3つの場所に入っていくことが大事であると訴えました。
「思考や行動は長くいた組織に引きずられがちなので、それを変えるには、『こうやって動きたい』と思える人たちが多くいるコミュニティに足を置いて、その人たちの真似をすることが大事です。会社ではチャレンジしろと言いつつも失敗は歓迎されませんが、起業においては失敗も経験のうちで、たくさんの経験を積んでおかないと精度は上がらないんです。ちょっとでも気になる人がいたら会ってみて、違うと思ったら離れる。その繰り返しによって自分の中で傾向を掴んでいくという、ある種のお尻の軽さを身につけることも大事になります」
このように、"木下ママ流"のプログラムは非常に盛り上がりを見せて幕を閉じました。軽妙なトークの中にも数多くの起業のヒントが散りばめられ、参加者も大いに楽しみながら起業を自分ごととしていったようです。これからの社会では、若者の頑張りと同じか、それ以上にミドルシニア世代の発奮が必要とされます。この日のプログラムも、そのための一助となったのではないでしょうか。ぜひともミドルシニア"マイ・スタートアップ"プログラム2021の今後にご注目ください。