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複業、パラレルキャリアの"業界"ではよく知られており、丸の内プラチナ大学でも講座を担当している塚本恭之氏。カシオ計算機を2014年に退職、「ナレッジワーカーズインスティテュート」を起業し、コンサルティング、人材育成などに取り組む。複業・パラレルキャリアはすでにライフワークであり、「複業サミット」を主宰するなど、多くの賛同者を巻き込み、複業・パラレルキャリアの推進を通して社会にインパクトを与えようとしている。3×3Lab Futureプロデューサーの田口とは、お互い大企業在籍時代からコンタクトをとるようになった、盟友・戦友といった間柄である。今回のインタビューでは、塚本氏のライフヒストリーとともに、複業というスコープを通して、今の社会をどう見ているのか、そしてその先について伺っていく。また、音楽の造詣も深く、今の世の中には「DJ的思考が必要」であるとし、「デザイン思考」ならぬ「DJ思考」の普及も密かに目論んでいるという。しかし、そのトーク内容は盛りだくさん且つカオスで、着地することを知らないのであった......。
田口 複業や働き方改革など、塚本さんが仕掛けてきたことが現実になってきています。今日お聞きしたいのは、なぜ、その仕掛けを始めたのか。今流れが起きていることをどう感じているか。塚本さんとの付き合いは随分長くなりましたが、今日のインタビューは、ご自身の現在だけでなく、現在に至るルーツなどもお聞きしたいと思っています。
塚本 実は、こんな時代が来るとは思っていませんでした。来ると思っていたら言わなかったと思います。初めて「複業」を言葉にしたのは2016年でした。1月1日のFacebookに「複業コンサル」を名乗ろうと書いていた。そうしたら、2月にロート製薬が複業を解禁。そして、3月には、政府が発表した働き方改革の項目のひとつに「柔軟な働き方」があって、そこで複業をOKにしようとしているという報道があった。それで「おお!」と思ったことが記憶に残っています。
田口 その時から「副業」ではなく「複業」だったんですね。それでは、「複業」の考え方に至るまでの塚本さんの経歴について教えてください。
塚本 生まれは京都の伏見区です。京都でも南の方ですが、そこに23歳までいました。
田口 大学生の時まで京都にいらっしゃったんですね。大学ではDJをされていたと以前お聞きしましたが、それまでずっと音楽関係を志していらっしゃったんですか?
塚本 音楽を明確に志したのは高校からです。さらに言うと、アート関係を志していて、演劇、映画、詩に関心がありました。高校では、演劇部、映画部、それからボート部に入部しました。
田口 ボート部!音楽だけでなく、スポーツの部活動にも入部されていたんですね。
塚本 でもボート部は勉強になりましたよ。ベンチャーの人はボートを参考にするといいと思います。僕は5人で漕ぐ競技だったんですが、コックス(舵手)の出す指示に従って、一糸乱れぬピッチで漕がないといけないわけです。これはすごくチームワークが必要なので、ベンチャーかくあるべしですね。
田口 その後DJの道にはいつ頃から進まれたんですか?
塚本 小学校の時まではショパン、メンデルスゾーン等のクラシックを主に聴いていましたが、20歳頃からDJを始めました。
田口 どこでされていたんですか?また、今につながっているような経験などがあればぜひ教えてください。
塚本 アルバイト先のクラブです。ウェイターも兼ねていました。半年くらい経って音響・照明を担当するようになったんですが、それが面白かったんです。照明ひとつで、お客さんが踊るか踊らないかが決まります。照明が良いと、バンドもノってくるんですよね。
田口 人を喜ばせるという点で、現在の塚本さんの仕事と通じるものがあるように思います。
塚本 そうですね。DJをしていたときもいろいろ仕掛けるのが好きでした。昔のクラブは、踊ることを前提としては作られていなくて、踊るときには椅子をどかす必要がありました。だから仕掛ける時には、店長やプロデューサーに「僕が照明を落としてガンと音を出したら、椅子を引いて!、とスタッフに伝えてください」などと連携していましたね。
田口 そういった仕掛けはファシリテーションによく似ていますよね。僕らもフューチャーセッションなどの場で、参加者同士での対話時間になると照明や音楽を考える。正解はないけど、そういう細かい仕掛けは大事ですよね。
田口 音楽業界で働く選択肢もありましたか?
塚本 そうですね、音楽関係で食べていこうと思っていました。サラリーマンはあくまで副業で。でも当時は音楽だけではなかなか稼げない状況で、地方のプロデューサーは、夜のお店を並行して経営している人も多かったです。でも、僕は昼の職業に就きたいなと思っていました。
その頃、大阪にラジオ局の「FM802」ができたんです。そこで、音楽のできる人を集めて、今でいうEXILEみたいな、大きいプロジェクトを作ろうとしていたので、そこに参加しようと考えていました。大阪でサラリーマンをやりながら、就業時間が終わったらスーツを脱いでDJやろうと。でも、就職していきなり東京勤務になっちゃったんです。
田口 カシオ計算機に就職されましたよね。
塚本 はい。東京に出てきてからは寮生活だったのですが、その寮がクラブのある六本木や渋谷から遠くて、23時台の電車に乗らないと帰れない距離でした。あまりの遠さに挫折して、東京での音楽の夢を諦めてしまいました。
それからは、仕事に邁進する日々。15年ほど、本社の物流管理を担当していました。
田口 何かその当時の印象に残っている経験はありますか。
塚本 ひとつはヨーロッパでの経験です。ベルギーの倉庫に問題が発生して、トラブルシューティングする必要がありました。でも、現地に行ってみると、倉庫の社員(ベルギー人やドイツ人)の意見を、本社の人間が全然理解していなかったということがわかったんです。彼らは皆懸命に働いているし、僕とたくさんコミュニケーションも取ってくれる。
田口 現場や当事者に意見を聞かずに人づてで話を聞いてしまうと、伝言ゲームで間違った伝わり方をしてしまうことがありますよね。
塚本 そうなんですよね。その後ベルギーで物事がうまくいくようになったのは、あるベルギー人の社員と仲良くなったことがきっかけだったんですが、そこでDJの頃の経験が活きていたんです。
クラブでDJをやっていたとき、PAでミキシングもやっていたのですが、ある黒人バンドが来たときに、「日本人にはR&Bは分からないから、ミキシングしないでくれ」と言われたんですね。でも、僕がDJでかけた曲が、たまたま彼の好きな曲だったようで、いきなり態度がガラッと変わったんですよ。「ソウルが分かっているじゃないか! もうすべてお前に任せる!」なんて言われて(笑)。つまり、言葉が通じなくても、エッセンスが共有できれば、お互い人間なので分かりあえるはずだ、と思えるようになった出来事でした。その経験があったからこそ、ベルギーでの問題も乗り越えられたと思います。
田口 その後、経営企画を担当する部署に異動されましたよね。その頃のお話を聞かせてください。
塚本 経営企画には自分から手を挙げました。当時、野中郁次郎先生の本を読んでいたので、触発されてイノベーションなら俺がやる!とね(笑)。その後、システム部門に異動し事業戦略を担当後、子会社の経営の立て直しを命じられました。
田口 僕が塚本さんにお会いしたのはその頃ですよね
塚本 そうですね。最初は、子会社の皆が僕に対して「変えてくれる」という期待を持って見ている。でも、僕が変えたい部分、彼らが変えてほしい部分に合わないところが出てきて、しばらく立つと反作用が起きて元に戻ろうとしちゃうんです。
田口 それでだんだん気持ちも離れ、仕事も離れ......。
塚本 そうですね。結局うまくいかなくて、半年くらいで社内失業の状態です。その後、総務部に異動して伝票整理や取締役会の議事録作成などをしながら、そこでもいろいろと企業文化の波にもまれましたね。
田口 目まぐるしい環境の変化ですね。
塚本 このままではダメだと思って、それから1年程で辞めることになったのですが、そのきっかけのひとつがプロボノでした。
当時プロボノでは面白いポジションにいたんです。「プロボネット(プロボノの草分け。マッチングやコンサルを行う非営利団体)」で、ディレクターの役割としてすべての案件を総括していたんです。大企業からもプロボノをやりたい人、面白い人がいっぱい集まっていて、そういう人たちを束ねてプロジェクトを立ち上げるのが面白かったんですよね。
田口 プロボノやフューチャーセンターで社外に出るようになったきっかけは何だったんですか。
塚本 中小企業診断士の資格を取ったことと、経営企画を担当していたときにイノベーションをやるなら外を知らないといけないなと思ったこと。その頃に、KDI(富士ゼロックスの知識経営コンサルティング「Knowledge Dynamics Initiative」)を紹介してもらって、フューチャーセンターに行き、そこの人たちからプロボノを教えてもらったんです。
田口 その後、会社を起こすわけですね。
塚本 実は、ある大企業の知り合いに「プロボノで人材育成する会社を立ち上げる」と話したら、「すごく面白い、稟議を通すからうちでやりましょう」という話になったんです。でも、お察しの通りオチがちゃんとあって、会社を辞めてからあらためてその知り合いを訪ねたら「ごめん! 稟議通らなかった!」と言われてしまって(笑)。仕方ない、これはイチから自分で始めるしかないなとなったわけです。
田口 そして、立ち上げた会社では、コンサルとプロボノを使った人材育成をメインにしていましたよね。最初から外=プロボノを使うことは考えていたんですか。
塚本 そうですね。もともと外を知ることで学ぶというのが根幹にあったので。ただ、最近でこそ、それが分かる人事の方も増えてきましたが、当時は複業という考え方も広まっていなかったし、複業で学ぶなんて発想を理解する人はそれほど多くはなかったですね。
田口 プロボノやパラレルキャリア、複業を使おうというのは、やはりご自身の経験があってこそですよね。殻(組織)の中で大胆な身動きは取りにくい状況に対し、複業という穴を開けることで次のキャリアが見えてくる。そのモラトリアムの期間を設けるのが複業だという考え方。
塚本 それはありますね。あと、複業は起爆剤になるだろうとも思いました。複数の職を持つということは、企業文化を打ち壊すことにつながっていく。
塚本 これは声を大にして言いたいのですが、政府が、2030年に向けたタスクフォースを作って提言を作成しましたが、そこに「複役社会」という言葉がちらっと書かれているんですよ。人口も中小企業も減って、AIの時代が加速する中で、複業だけじゃなく、いろんな人が複数の役割を果たす社会でないと成立しなくなってしまうだろうと。これはすごく大きな変化です。
そして、複業に加えてこれから来るのが「コレクティブインパクト」だと思います。いろんな人が組織を超えて集まって、共通課題で成果を出す。そのとき、プロボノやフューチャーセンターの経験が活きてくる。
田口 その流れにおいては、SDGsが良いバックグラウンドになっていますよね。会社としてだけでなく、社会全体で共通ゴールを持ちましょうとなった。コレクティブになるうえで、良い舞台になったと思います。
塚本 SDGsも、会社それぞれで独自に取り組んで終わりじゃなくて、会社を超えて取り組むというのが本質ですからね。
田口 今後の展望についてなんですが、懸念があるとしたら、経済状況が悪くなったときに、このSDGs文化が壊れないのかどうか。多分壊れることはないとは思うのですがどうなるのか。そして複業では、マーケットが大きくなるので、格差が広がると思うんですよね。
塚本 格差はあるかもしれませんね。
田口 これまでは、会社という組織体の中での人事マーケットにおける格差だったけど、今後、複業が一般化すれば、社会全体のマーケットでの勝負になる。そうすると、競争も激しくなるし、これまで以上に格差も大きくなると思うんです。そこをどうするかという点について、複業コンサルの立場からお聞きしたいです。
塚本 まずは、ギグワークやフリーランスの社会をちゃんとデザインしないと、そこから格差が広がってしまいますよね。
そもそも複業は、「こっちで収入をもらいつつ、こっちもやる」というのがいいのに、フリーランスやギグワークに流れてしまっている現状がある。複業とフリーランスは、ちゃんと分けて考えないといけない。複業に関わっている政府の人が、その2つを一緒に捉えてしまっていると思うんです。フリーランスは、一本立ちできるからフリーランス。むしろ1人でやれるからフリーなんです。でも、複業は1人でやれないから複業でやるんですから。
田口 でも、まだそこの設計ができていないわけですよね。誰も経験したことのない、新しい社会だからこそ難しい問題だと思います。
塚本 やりたいことに対して、一歩踏み出す助走期間としての複業という意味がある。そこを分けて考える必要がありますね。
あと、今後の社会に対して大事だと思うのが、「自分が"貰う"のではなく、"稼ぐ"という感覚を身につける」こと。これについては、企業に属する中堅から部長クラスの方も、それこそ複業することで再確認できる部分があると思います。そこに、会社のビジネスに還元できることがきっとありますから。
田口 自ら価値を提供し、その対価をもらうというビジネスとしての基本中の基本があらためて複業で学べる、と。
塚本 そうですね。そして、主語をwe(会社)だけではなくI(私)にすること。Iがあったほうがweも活きると思います。
田口 なるほど。まだまだ話題が尽きることがないですね。これだけ話してきても、答えがないというのが答えだなという気がします。
塚本 カオスな世の中だから、それでいいんじゃないでしょうか(笑)。
田口 そうですね。我々の世代はどうしても水戸黄門的にお仕舞いにしたくなりがちですが、綺麗にまとめすぎなくてもいいんですよね。本日は長時間ありがとうございました!
大学卒業後、カシオ計算機株式会社。ロジスティクス部門から、経営企画、事業戦略(役員付)担当、IT系グループ会社経営戦略室長などを歴任。同社初の全社提案制度や社内ベンチャー制度の企画・運営に従事。2010年、プロボノコンサルティングネットワークに参画。12年からコンサルティング部門を統括。2011年以降「働きがいダイアローグ」等多くのダイアローグ・セッションを主催、企画とファシリテーションに従事。2014年にカシオ計算機を退社し、ナレッジワーカーズインスティテュート株式会社設立。