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情報機器メーカーにてマーケティングや人材活用マネジメント関連の業務に従事した後、2014年に「人生を豊かにするチャレンジ」を応援するコンサルティング会社「志事創業社」を設立した臼井清氏。現在は「世の中で名乗っているのは僕だけ」という事業開発アーティストという肩書の下、丸の内プラチナ大学では「アートフルライフコース」の講師として新しいアートの楽しみ方を探求するなど様々な領域にチャレンジされています。
そんな臼井氏が精力的に活動を続けられる要因は何なのか。キャリアを辿りながら、その力の源を探っていきました。
田口 本日は臼井さんの原点や転換期のお話を伺いながら、今後の展望や読者へのメッセージをいただきたいと思います。臼井さんは、就職後に海外に赴任したこと、独立したこと、アートに関する仕事を始めたことなど、私が知っているだけでもいくつかのポイントがあったとは思いますが、時系列順に幼少期のお話から伺っていこうと思います。ご出身はどちらでしょうか。
臼井 兵庫の仁川という地域です。父が転勤商売だったので東京や埼玉でも暮らしたし、かと思えば京都に行ったり、東京に戻った後に岩手に引っ越したりもしました。高校生になった頃にようやく落ち着き、高校と大学は都内の学校に通い続けることができました。
田口 幼少期にあちこちの街で暮らしたことはその後の人生に影響していますか。
臼井 とても影響していますね。2、3年ごとに引っ越していたので、今でもそのくらいの期間で何かしらの変化が起きるのが自然だと感じています。むしろ変化がないと気持ち悪いというか、大丈夫だろうか?という気持ちになります。
田口 大学では法学部を選択したそうですが、そこからメーカーに就職したのは何か理由がありますか。
臼井 もちろん今では思っていませんが、当時は金融系やサービス系の業種を虚業だと考えていました(笑)。だからものづくり系の会社に行こうとして、諏訪精工舎(現・セイコーエプソン)に就職しました。諏訪精工舎を選んだのは、海外に拠点を持っていること、これだけの規模の会社なのに長野に本社があること、そして文系出身者が少ないことが理由です。3点目は、僕が文系だったので、同じようなタイプの人間が少ない方が出世しやすいだろう思ったためです。
田口 しっかりと計算されていたんですね(笑)。
臼井 その頃から計算高かったので(笑)。とはいえ、当時はまだバブル前で、同期入社の中には採用面接が別のエリート組のような人たちがいました。入社後に「俺たちは雑草一般組だけど、お前らはエリート組だから全然違うよな」なんて卑下したり。ちっちゃい奴でしたね。(笑)
田口 それでも入社してからは順調に社会人生活を歩み、狙い通り海外赴任も経験されましたね。最初の赴任先はどちらだったんですか?
臼井 35歳頃に台湾に赴任したのが最初でした。台湾では主に電子部品を現地のメーカーに納めたり、保有している技術を現地企業に提供したりと、いわゆるテクノロジーマーケティングのような仕事をしていました。
田口 海外赴任を狙っていたということは、言語は勉強していたんですか?
臼井 それが全然できなかったので、海外赴任が決まってから英会話スクールに通いました。台湾では基本的に英語でしたが、たまに挨拶程度のマンダリン(標準中国語)も使っていました。
語学に関して今でも印象に残っているのが、赴任初日の現地メンバーとのミーティングです。同席していた前任者に急用が入り、僕一人が取り残されてしまったんです。立場上、「何もわかりません」という態度を取るわけにもいかず...。気づいたらミーティング時間が終わっていたので何とかなっていたのかもしれませんが、内容も思い出せないほど、すごく緊張したことだけは今でも覚えています。
田口 臼井さんの場合、完璧に準備した状態でなくても、行ってしまえばなんとかなるという雰囲気を持っていそうですね。
臼井 それはあるかもしれません。実際、海外赴任も「ラッキーだな」と思って行きましたから。
田口 台湾の後はイギリスやドイツにも赴任されました。ヨーロッパでは拠点のトップも任されたようですが、入社前に思い描いていた出世コースも見えていたのではありませんか。
臼井 おそらく、その頃が「勘違い」の絶頂期だったかな(笑)。会社自体も、自分自身も右肩上がりで、成長しないやつはおかしいくらいの思いを抱いていました。
田口 でも、当時はそれが普通の価値観でした。組織の中で上を狙うのは当たり前で、下にいるままの人間は違うだろうと。昭和世代の人が社内で積み上げていく様子を真剣に語ってくれる機会が今はあまり多くないのでとても面白いです。
臼井 周囲の人間と自分は違うと感じていたんです。今考えると本当に恥ずかしいし、当時の自分はバカだったなあと思うのですが(笑)。
田口 当時の業務の中で印象深い出来事はありますか?
臼井 仕事自体はすごく面白かったのですが、苦しい思いもしました。例えば、ヨーロッパのある拠点を閉じる責任者として動いたときは本当にしんどかったです。
拠点を閉めるということは、現地スタッフをクビにするということです。誰にも知られないように下準備を進めつつ、日常的には何食わぬ顔でスタッフと接しなければならない。そうして準備ができたところでバッサリと拠点のクローズと解雇を伝えるわけです。法的には問題ない条件で進めていくのですが、それまで仲良くしていたある現地スタッフからは「俺の全精力をかけていつかこの恨みを晴らす」とまで言われました。国が違ったら銃で撃たれていてもおかしくなかったと思います。あれは辛かったし、本当にしんどかった...。
田口 経営者は事業を上手く進めるだけではなくて、従業員、そして従業員の家族の生活までも責任を負うと言われますが、その言葉を身をもって経験されたわけですね。それはトラウマになりましたか。
臼井 普段はお調子者なのに、あの頃は周りからも暗い顔をしていると言われていたから、やっぱり堪えていたんでしょうね。そこで人を雇うしんどさと経営に必要な覚悟を感じたことも影響し、独立後は従業員を雇わずにフリーで動いているところがあるのかもしれません。雇えるほどの経営の覚悟を自分は持てるのかと。
田口 僕たちが出会ったのは2009年頃でした。臼井さんと初めてお会いしたのはあるワークショップでしたが、僕を含め周りの様子をよく観察されている方だなと感じたのをよく覚えています(笑)。
臼井 恥ずかしいな(笑)。当時は、日本に帰国してから新規事業を担当する部門にいた頃でした。
田口 いわゆる花形部署ですね。
臼井 「これからこの会社は俺が食わせてやる」と勘違いしていたのですが(笑)、実際は本流から外れていたのでしょうね。
新規事業をいくつか立ち上げ、優秀な部下のおかげもあり成功例もあったのですが、その頃に東日本大震災が起こりました。既存事業のリカバリーを優先させるため、担当していた新規事業の開発は凍結になりました。僕は中断するプロジェクトの契約関係の整理や、メンバーを他部署に振り分ける業務に追われて、落ち着いたのが2011年末頃でした。その後役員に次の業務についてお伺いを立てたら、「お前の仕事はもうないよ」と言われたんです。そこで、ずっと続いていた勘違いからようやく目が覚めました。
田口 最初はわけがわからない状況ですよね?
臼井 まさにその通りで、何が何だかわからないまま社内失業生活に入りました。今思えば仕事をしなくても給料がもらえる日々はこの上なく幸せだったのかもしれませんが(笑)。実際にそういう状況になると人間は自分自身の存在価値を問い直します。最初は会社に対してはものすごい怒りを抱きましたし、次に虚無感を感じたりもしました。
しばらくして落ち着いたところで、次はどうしようかなと考えられるようになっていきました。その頃は一時的に人事部に属していたのですが、社内のメンバーを眺めていたら、この人はもっとこんなことができる、この人とこの人を組み合わせるときっと面白いだろうといったアイデアが浮かんで来たので、色々な企画を立ててみました。それを見たせいかどうかはわかりませんが、その後正式に人事部の所属となり、新しい道が開けていきました。大企業の人事部で働けたことはいい経験でした。大きな会社だとどうしても綺麗事だけでは組織は維持できないし、時には外科手術のようなこともしないといけない。そういった厳しさを持たないと組織は回らないんだということを感じられたのは、とても良い経験だったと思います。
田口 その後独立されたのですか?
臼井 起業の前に、一旦新規事業部門に戻りましたが、その頃には会社がやろうとしていることと自分自身がやりたいことの規模感やスピード感に乖離を感じるようになっていました。それでいよいよ、小規模でいいから一人でやろうかなと思い、独立しました。
田口 そして立ち上げたのが「志事創業社(しごとそうぎょうしゃ)」ですね。
臼井 これまでは仕えることでお金をもらっていたけど、これからは自分が志す事でお金を生み出していきたいし、同じような考えを持つ人が増えたら面白いなと思い、新規事業を立ち上げたい人を応援する会社を設立しました。
田口 創業してからこれまでを振り返っていかがですか?
臼井 最高に楽しいし、言うことないです。紆余曲折ありましたが、今の環境に感謝しています。以前はフリーランスの方は孤軍奮闘している印象でしたが、僕の場合は色々な人とチームを組んだり、既にあるプロジェクトに途中から入るケースが多いため、誰かと一緒にチームとして動く面白さを改めて感じられています。
田口 「引退」という言葉は臼井さんの中にあるんですか?
臼井 ないない。プロジェクトによってはフェードアウトしていくところはあるだろうし、田口さんからお呼びがかからなくなるかもしれないけど(笑)。でも、僕の中ではやっていきたいことがまだありますし、この歳になっても新しい出会いがあると思っていますから。
田口 僕からは声をかけ続けますよ(笑)。
田口 今回のお話の冒頭で「変化がないと気持ち悪い」という言葉がありましたが、臼井さんと一緒に動いていて感じるのは自ら変化を仕掛けている点です。例えば、初期の丸の内プラチナ大学では、「CSV実践コース」という企業のCSV活動のあり方を考える講座を臼井さんにご担当いただいていましたが、第3期(2018年)にコースを見直す際に「アートフルライフ・デザインコース」を新たに担当していただくことになりました。CSVからアートまで、活動の幅がとても広いですよね。
臼井 自分の中では以前からアートが好きだったので、挑戦する機会をいただけて嬉しかったです。
僕は会社員時代からマーケティングの人間として活動していました。マーケティングは、相手のペインを探し、それを緩和してあげたり、癒やしてあげたりすることでビジネスにしていくのが基本です。ただ、独立してから地域創生に関わることが多くなりましたが、そういう姿勢のまま地域に行って「この地域の課題はなんですか?」と聞くのが嫌になってしまいました。ビジネスのアプローチとしては間違いではないのですが、決まりきったフレームワークでしか物事を見られない自分が情けなくて。それに対してアートは課題がどうとかではないし、わからないものをわからないと言ってもよくて、素直に向き合えるものなんです。こうした観点が今のマーケティングには足りないという思いもあって、アートに関する講座を始めさせてもらいました。
田口 僕たちはもう10年以上の付き合いになりますが、今回対談して改めて、臼井さんは自然体で変化も受け入れていく方だと感じられました。そうした姿勢は若い世代にも良い影響を与えられるだろうと思います。
臼井 若い人たちからは本当に教わることばかりだし、色々な人が現れてすごく刺激をもらっています。でも、アドバイスと言うと大げさだけど、「わからない」を楽しいと思えるようになることは大事だし、そのスタイルを身につけると人生は圧倒的に豊かになるということは知っておいてもらいたいかな。
田口 いわゆる「ネガティブ・ケイパビリティ」の考え方を身につけるということですよね。もう少し詳しく教えてもらえますか。
臼井 人は身体で色々なものを感じますが、そのうち頭で本当に自覚しているものはほんのわずかなものですわからないと思われているものや、無駄だと切り捨てられるようなところにこそ、実は豊かなものが一杯眠っている。
では、わからないものに対してどうやって向き合っていけば良いか。それは、「わからなくて嫌だ」「わからないから触れたくない」と感じることがステップ1だとすると、「わからないから、わかるようにしよう」と考えるのがステップ2。そして、「わからないことに向き合ってみたけど、わからないことがわかった」というのがステップ3です。これがすごく大事で、ここまで来るとわからないことが楽しくなってくるんです。
本来生物にとってはわからないことを放っておくのは危険だし、とても怖いことなんです。一方で、わからないものの中には、突き詰めると実は素晴らしいアイデアを生み出すものや、そのヒントになるものもある。だから、怖いだけでわからないものを放っておくのってとてももったいない。
田口 今のお話の逆説ではないですが、わからないことに向き合っていくと、当然ながらわからなかったことがわかるようにもなるんですよね。
臼井 大事なポイントですよね。「わかり合える」という言葉が好きなのですが、これは素晴らしい日本語だと思います。自分だけがわかった、相手だけがわかったではなくて、「お互いにわかり合えた」という感覚を持てる瞬間が訪れることがすごくいいんですよね。「わからないことがわかり合える」とでもいうような...言葉だけで捉えるとちょっと矛盾した感覚なのですが。
田口 年齢を重ねるごとにわからないものに対して閉じていくことも多くなりがちですが、臼井さんの場合は「わからないを楽しむ」という領域がどんどん広がっているように感じます。そこが純粋にすごいと思っています。これからも色々なことに一緒に取り組んでいきましょう!今日はありがとうございました。