8,11,17
宮崎県、三菱地所、エコッツェリア協会の3者が2017年に連携協定を結んだことで始まった人事交流。その出向先であるエコッツェリア協会への2人目の出向者として、2020年に宮崎県庁から派遣されたのが、徳永麟太郎さんです。出向後は、3×3Lab Futureで実施するイベントの企画運営のほか、外部との連携・調整などを担当。当協会のスタッフだけでなく、3×3Lab Futureの個人会員の方々にも温かく迎え入れられ、すっかりおなじみの顔となりました。
しかし、出向のスタートは深い挫折から始まった、と話す徳永さん。一方で、田口は挫折を受け入れてリスタートする素直さが徳永さんの優秀さの表れだと話す。この春、2年の出向を終えて宮崎に戻る徳永さんと、コロナ禍で苦楽を共にした田口が語り合いました。
田口 徳永さんは宮崎県庁からの出向で、コロナ禍が始まる2020年4月から3×3Lab Futureに勤務してくれました。行政というのはさまざまな社会課題に対してリアルに接している現場だと思うんです。そして徳永さんは出向を通して、行政と民間の間でたくさんの経験をしたと思います。今日はその辺の話も聞いてみたいのですが、まず、あらためて自己紹介からお願いできますか?
徳永 田口さんとはいつもざっくばらんにお喋りしているので、急にかしこまったインタビューになると緊張しますね(笑)。徳永麟太郎と申します。1992年生まれの29歳、宮崎県新富町生まれで、福岡県の大学に行った4年間以外はずっと宮崎県で過ごしています。宮崎県庁に入庁して7年目、エコッツェリア協会に来て2年が経とうとしています。
田口 せっかくなので、少し過去のお話から伺いますね。大学では何を学んだんですか?
徳永 法律を学んでいました。
田口 それは法律を仕事にしたかったとか、なにか理由があって?
徳永 高校3年生のときにドラマ『HERO』で検察官という仕事を知り、法律で法曹として人助けをしているのを見たのがきっかけでした。その後法学部に入って勉強を進めていくうちに弁護士への憧れも生まれ、士業も考えつつ1、2年を過ごしました。しかし、3年生のときに地方行政がご専門の教授のゼミを履修したことをきっかけに、地方自治体の職員って面白いな、と思うようになりました。
実は、父も宮崎県庁の職員だったんです。幼少期に覚えている父親の姿って、農政関係で農家を指導する立場にあったんですが、偉ぶった様子がなく、淡々と、でも真摯に自分の仕事を向き合っているような感じ。部下の方々からも慕われていて、信頼も厚い様子を子供ながらに感じ取っていました。そんな姿がなんとなく頭に残っていて、父に相談したら『面白いぞ、県庁は』と言われたんです。自分の中でも色々と考えながら、どの仕事もその延長線上には誰かがいること、それが県庁の仕事であれば、大好きな宮崎県のための仕事ができること。そういったことが決め手になって、県職員の道を選びました。
田口 面白いですね、それは『中立』というのが共通のキーワードのようにも思います。法曹の仕事もどちらかに付くのではなく、真ん中にいてバランスを取っている。自分の利益の最大化を狙うものではないというところが似ていますよね。 ちなみに、どうして市町村ではなく県を選んだのですか?
徳永 そこは本当に迷った点で、当時福岡にいたので、福岡市という選択肢ももちろんありました。しかし色々考えた結果、自分を育ててくれた宮崎県、故郷に貢献したいと思いました。言葉にするとなかなかうまく表現できない部分なのですが、自分が生まれ育った場所が好きで、そのためになるような仕事をしたいなと。町まで絞ると新富町という選択肢もありましたが、北は高千穂町から南は日南まで、『宮崎県が好きだな』という気持ちに行きついたことが大きかったですね。
田口 なるほど。それで就職して、どういった仕事をしていたんですか?
徳永 2年間、教育委員会の財務を担当。その後、3年間は県の税金を取り扱う部署にいました。一概に県庁といっても、部署によってそれぞれの目的や課題、専門性が異なり、宮崎県をより豊かにするためには色々なアプローチがあるのだと気付きました。
田口 では、いよいよ出向の話に移っていきますが、自ら手を挙げたときの想いや、どのように出向先が決まったのかなどを聞かせていただけますか?
徳永 20代後半になり、もう一歩何か新しいチャレンジをしてみようと思い、出向に手を挙げました。もちろん、どのような出向先でも得難い経験になるのは承知していますが、当時私が希望したのは、広く見渡せる総務省や内閣府、そして民間企業の中では、社会のために突き抜けた取組を進める三菱地所/エコッツェリア協会でした。
(前任者の)井上航太さんのレポートを読んでいて、3×3Lab Futureのことはとても気になっていました。しかし、3×3Lab Futureのことをインターネットで調べても、WEBサイトにある色々なレポートを読んでみてもどこか掴みきれなくて。でも、社会のために何かやっているんだ、ということは強く伝わってきました。
田口 2020年、出向していきなりコロナの影響で出勤できないという状況で始まりましたよね。それはどうでしたか?
徳永 周りの方が本当に親切に、丁寧に色々なことを教えてくれたので雰囲気も掴めましたし、気になるところはありませんでした。ただ、施設にたくさんの人が集まる様子をなかなか見られない状況が最初はもどかしかったですね。
田口 4月で状況に慣れつつ、5月6月はオンラインのミーティングやイベントが増えていったと思いますがいかがでしたか?
徳永 当時、オンラインで画面越しに人と話すという経験がまったくなかったんです。コロナの影響でテレワークが始まった頃、おそらく東京で働く皆さんもそれほど経験があったわけではないと思うのですが、その中でも驚くほど順応性が高く、対応力がある様子を目の当たりにして、これが東京の人か、と思ったことを覚えています。
田口 徳永さんは、出向してから落ち込んだこともあったと言っていたけど、その感情のグラフの変化について教えてもらえますか。
徳永 当初、東京でも自分の力をバリバリ発揮できる、なんなら、東京に行くのは俺しかいない、くらいの気持ちもあったかもしれません。でも、こちらに来て打ち合わせに参加するようになると、難しい話やスピード感についていけないことが増えてきたんです。最高潮のテンションで4月に異動してきた後、7、8月頃にはもう『俺はめちゃくちゃダメだ』と。仕事ができる自分という幻想は打ち砕かれ、全然仕事ができない自分に直面することを余儀なくされました。目の前の仕事を効率良く進めることができず、色んなことを忘れてしまうし、自分で書いたメモを見返してもいまいち分からなくて...。
田口 例年夏に開催している学生向けの企画「丸の内サマーカレッジ」でも、色々衝撃を受けている様子でしたね。
徳永 参加している高校生・大学生たちは皆吸収力がありますし、その勢いに圧倒されていました。正直、弱気になってしまった瞬間もありましたが、年齢関係なく皆と一緒に取り組むんだという気持ちで運営していました。
田口 あのとき、傍から見ていると腹が据わったというか、心を決めているようにも見えました。
徳永 前向きというか、とにかく目の前のことを一つずつ吸収していこうと思うようになっていきました。ゼロからスタートしようと。もちろん、そんなにきれいに割り切れたわけではなかったですし、その後も何度も上がっては下がりを繰り返しましたが、それでも前を向けるようになったと思います。
田口 夏以降は、「丸の内プラチナ大学」が始まり、東京都の創業支援事業「インキュベーションHUB推進プロジェクト」が始まりと、忙しくなっていきました。最初は『仕事の質』について考える時間が続きながら、夏以降は『仕事の量』がハードルとしてあったかと思います。その点はどうでしたか。
徳永 確かに自分はマルチタスクが苦手で、一気に片付けることもできなくて大変な時もありました。しかし、周りの皆さんに助けていただき、焦って変な質問をしても丁寧に教えてくださり、ポジティブなアドバイスもたくさんいただきました。そうして経験を重ねて、以前よりは色んな作業を並行してできるようになってきたと思います。
田口 内部だけじゃなく、社外の人たちとのコミュニケーションはどうでしたか?
徳永 最初の頃、なかなかメールのやり取りもうまくいかないことがありました。業務の流れが分からなかったこともそうですが、相手の状況を想像しながら言葉を選ぶことができていなかったと思うんです。でも、そんな自分に親身になって接してくださる方々ばかりで、本当に助けられました。
田口 エコッツェリア協会は、内部だけじゃなく、外部も含めてひとつのコミュニティになっていますよね。
徳永 はい、一緒に頑張ろうと励ましてもらえました。おかげでやりきれたのだと思います。
田口 ここまで気持ちの面について聞いてきましたが、徳永さんが関わってきたことは、大きく言えば地方創生、都市と地域をつなぐことがキーワードになっていると思います。今回の出向を通じて東京からの視点で、宮崎やその他の様々な地域を見てきたと思います。地方、地域の見方について、以前と変わったと思うところはありますか。
徳永 大きく変わったと思います。一番のきっかけは、他の自治体の行政職員と話す機会が増えたことです。出向のおかげで、頑張っている自治体、面白い取組を進める自治体がたくさんあることを知りました。我々公務員は「お役所仕事」と揶揄されることもありますが、全国には熱い思いを持った自治体職員がいて、地元の魅力を発掘したい、課題を解決したい、そこに暮らす人々のために、自分たちがやらなくて誰がやるんだと本気で思っている。大きなモチベーションを得るとともに、地方の可能性を改めて感じることができました。
田口 この2年の中で、『都市と地方の共生』について何か考えや思うところはありますか。
徳永 以前は都市と地方の関係は、『都市が地方を助ける』だと思っていました。都市のもつ圧倒的な財力、豊富な人的資源、溢れる情報。つまりヒト・モノ・カネが豊かな都市が地方を助けると。しかし、結論は見えていないのですが、最近は都市と地方が助け合えるんじゃないか。互いの足りないところを補い合えるんじゃないかと、そう思うようになりました。
都市は人材を地方に送り込むことができる、また発信する場を提供することができる。一方で、地方はリフレッシュできる食・風土、文化や学びを提供できるのではないか。そこで地域を越えて交流が生まれることで、新たな何かが生まれる可能性を秘めているのではないでしょうか。コロナ禍で地方への注目はより高まってきていますし、地方にとっても大きなチャンスであると思います。
田口 色んな地域に触れて、対話した結果の気付きですね。では、企業と地方についてはどうですか。
徳永 時代の要請もあるかと思いますが、地方創生やSDGsという文脈で、企業と行政が同じ方向を向いて連携すると、驚くほど大きなシナジーを生む。当たり前のことですが、ここにきて肌で感じることができました。
企業はフットワーク良く色々なことができる。一方で行政は、時代や状況に応じてさまざまな制限を緩和するといった対応ができる。企業と行政が一緒に仕事をしている現場を見ることができて、すごく新鮮でした。
田口 最後に、この2年間の様々な経験を踏まえて、なにか宣言していただくことはできますか。
徳永 対話の場というか、3×3Lab Futureのような場を作りたいと思っています。色々な垣根を超えて、多様な人々が集まって議論できる場を作りたいです。
また、ここでつながった人たちを、さらに宮崎の人たちにつなげたい。そこからなにか生まれることにも期待しています。
田口 ありがとうございます。徳永さんが宮崎に戻られたら、ここで経験したことや人とのつながりのことを、ぜひ色々な人に話してほしいと思います。対話の場を広げるということもありますが、蓄積してきたことを人に伝えることで自分の認識を掘り下げることにもつながると思うし、記憶も新たになって次につながっていくと思います。
徳永さんは、今の自分と向き合って、ゼロからスタートを切るつもりで取り組んできたのだと話してくださいました。それができる人はそう多くありません。本当に素直で、優秀な方だと思います。宮崎に戻ってからも、たくさんのことをご一緒できたら嬉しいですね。今日はありがとうございました。
平成4年、宮崎県新富町生まれ。平成27年、宮崎県庁入庁。教育庁、県税事務所を経て、エコッツェリア協会に出向。3×3Lab Futureにて、丸の内プラチナ大学や東京都インキュベーションHUB推進プロジェクトに従事。
東京で「仕事ができない自分」と対面し、ゼロからスタートすることを決意。都市と地方の関係性、「行政としてできること」について思索を重ねる。
現在は宮崎県庁に帰任し、エコッツェリア協会での経験を活かしながらプロモーションや地場産品の販路開拓に関する業務に取り組む。