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エコッツェリア協会のプロデューサーとして、3×3Lab Futureを拠点に活動する田口には、旧くからの「盟友」が数多くいる。その盟友たちが、現在では3×3 Lab Futureのつながりを土台に雄飛し、新しい種を社会に撒くようにもなっている。今回登場する岡本克彦氏もそんな盟友のひとり。
日本電気株式会社(以下、NEC)でブランド戦略を担当するとともに、神奈川県川崎市の武蔵小杉エリアで「こすぎの大学」を主宰し、まちづくりや地域活性化の活動などにも取り組む。そのキャリアプロセスは本人が語る「恵まれている」という言葉とは裏腹に、苦難と激動が続いているが、それを微塵も感じさせない人柄の良さがある。
田口 早速ですが、我々の出会いについて......
岡本 半年ぶりに会うのに、いきなり何事もなかったかのように話し始めますね!(笑)
田口 すみません(笑)。でももう10年の付き合いになりますよね。初めて会ったのが2010年だったと思います。
岡本 当時、僕はNECの携帯電話事業にいたのですが、2008年にiPhoneという黒船が上陸し、衝撃を受けていたころでした。2008年7月11日、始発に乗って表参道のソフトバンクショップに行ってみたら、渋谷まで続く行列ができていて。もうガラケーの時代は終わってしまうんだなと、とても危機感を感じていたのを覚えています。この危機感を誰かと共有し、何かしらのアクションを起こさなければと思うようになっていました。
でも、どこへ行って誰と会えばいいのかすら分からない。そんな時、共通の知り合いに「面白い人がいる」と紹介されたのが、同じグループ会社の田口さんでした。当時田口さんは「Future Innovation Cafe」という対話型の場を運営していて、どんどん外に出て、多くの人とつながりを持っている姿が印象的でした。
田口 僕がつながりを求めて外に出た当時の思い、意識や目的は、今もあまり変わっていない気がします。大手企業の人は、外に出ても知り合い同士で固まってしまって、つながりを上手く持てないケースが結構あると思うのですが、岡本さんはその辺りをどう乗り越えたんですか。
岡本 乗り越えたという感じはあまりしていなくて、同じような「健全な危機感」を持っている人たちに、運良く出会えたという感じでしょうか。携帯業界でいうiPhoneの例のように、自動車業界では電気自動車の波が来ていて、そういったことに危機感を持った人たちが集まって語り合っていた。さらには語り合うだけでなく、何をするかという具体的なアクションも伴っていた。だからこそ、本当の仲間が生まれたと思っています。
田口 そうですね、ただの井戸端会議で終わらない力があった。その後、3.11の震災のときに「絆」という言葉が注目されたじゃないですか。僕らとしてはそこで改めて、「横のつながり」の大切さを実感しましたよね。
岡本 分かります。だから、今の新型コロナウイルスも割と落ち着いて見ていられるというか。人類の安全を脅かす危機は10年前にもあって、きっとこの先10年後にもまたあるだろう、社会というのはそういうものなんだと。未来との向き合い方を学んだと思いますね。
田口 無知の知を知ったというのかな......想定外のことが起きることを想定している。だからこそ、何が起きてもどっしりと構えて考えられているんだと思います。
岡本 人間はどうしても忘れる生き物ですけど、10年前に大きな変動があったということは、しっかり覚え続けていたいですね。コロナ禍で「ニューノーマル」という言葉が使われるようになりましたが、これはリーマンショックの後にも言われていた言葉ですもんね。
田口 岡本少年はどんな子どもだったんですか。
岡本 恵まれた少年時代だったと思います。私の親は「挨拶をする」「人を不快な思いにさせない」などの基本的なことには厳しかったですが、あとは放任で、好きなことをやらせてくれました。部活動も自分の好きなことをやって、高校も大学も自分の行きたいところに行くことができた。幸せな環境だったと思います。
田口 卒業してからは、NECホームエレクトロニクスで、ワープロのマニュアルなどを書く仕事をされていたんですよね。
岡本 実は僕、もともとは国語が大嫌いで(笑)。「このときの筆者の思いを述べよ」というテスト問題で、自分なりに想像して解答しても、「筆者はそう思っていない」と言われることがあるじゃないですか。でも、「ひとつに決めつけるのはおかしい!」と思っていたんです(笑)。
それが変わったのが、大学でテクニカルライティングという考え方に出会ったこと。例えば、「田口さんはかっこいい」は主観的な文章だけど、「3×3Lab Futureは大手町にある」は確実な事実で、YES・NOで答えられる。客観的事実を扱えるという点で、マニュアルを書くテクニカルライターになりたいと思ったんです。
なぜ家電メーカーかというと、当時はデジタル機器が出始めたころで、買っても上手く使えずに、宝の持ち腐れになっている人が結構多かった。そういう人たちの「使えない」を、マニュアルを書くことでなくしたいと思って、NECホームエレクトロニクスに入社しました。
田口 大手企業に入社すると、最初は自分の希望する配属に至らないこともあると思いますがいかがでしたか。
岡本 テクニカルライターの職に就くことはできなかったのですが、結果的には自分がやりたいと思っていたことをやらせてもらえたんです。希望したわけではなかったのですが、最初に配属されたのが品質保証部。品質を、スペックではなくバリューで考えるチームが設立されたところでした。
従来の品質保証部では、「製品の厚みが何mmになっているか」「ソフトウェアのバグがないか」といったことをチェックする仕事が多かったのですが、新しく作られたチームでは、「使いやすいか」「魅力があるか」というような、ユーザ目線から商品を評価するというもので、やりたいと思っていたことにすごく近かったんです。
例えば、写真を印刷する際のワープロ機能の評価。当時は年賀状のために、赤ちゃんの写真を印刷するユーザが多い時代で、それがちゃんとキレイに印刷できるかどうかをチェックしていました。
開発側からは、写真の肌の色を忠実に再現したいという声が聞こえるのですが、そうするとちょっと不健康な感じに印刷されてしまう。でも使い手としては、記憶に残っている子どもの表情を印刷したいじゃないですか。だから技術者、開発者と「忠実かもしれませんが、本当にキレイだと思いますか?」とたくさんコミュニケーションを重ねました。この時にやったことは、「記録よりも記憶のほうが大事」という新しい価値基準を作ったことだと思います。
田口 なるほど。先ほど国語が嫌いとおっしゃっていましたが、本当は国語にこだわりがあったのでしょうね。「事実よりもどう感じるか」を大事にしたかったということが、今の話でよく分かる気がします。ちなみに、品質保証部にはどれくらい在籍されたんですか?
岡本 品質保証部に1年半くらいいて、商品企画部に異動しました。入社するときは「マニュアルで『使えない』をなくしたい」と思っていましたが、この商品企画部への異動が転機となって、「マニュアルがなくても使えるような商品を作りたい」という気持ちへと変化していきました。
田口 それはいわゆる課題の本質化というか、課題が昇華した状態ですね。ある程度年齢を重ねるとそういったことに気付けますが、若くして気付くのは素晴らしい。
田口 その後、NEC本体に異動したんですよね。
岡本 僕が入社した1995年にWindows95という、これまた黒船が来て、ワープロのユーザがパソコンに一気に流れました。その結果、業界全体が打撃を受けてワープロが世の中から消えると同時に会社も解体されました。その時代の流れを見ることができたのは良い経験だったと思います。
商品というのは、僕ら人間もそうですけど、誕生して、成長期があって、成熟期があって、そして衰退期に入る。でも上り調子のときには、成長期がずっと続いて衰退期が来るなんて思いもしないじゃないですか。だけど、何でも必ず寿命が来るのだということを商品を通じて教えられました。
これは同時に、商品には寿命があるけれど、本質的に生活者が求めている価値は変わらず、表現する手段だけが変わるという気付きでもあったと思います。その後、2000年にNECホームエレクトロニクスがなくなって、NEC本体の携帯電話事業部へ異動。iモードが始まったのが1999年ですから、激動の時代でしたね。
田口 僕は当時有線の世界にいましたが、1999年は孫さんがADSLを配っていた時代で、同じように激動の時。そんな時代に本体の成長部門に行けたのは、すごく運がいいと思います。
岡本 でも、最初は結構苦労もありました。それまではぬるま湯につかっていたということかもしれませんが、異動してみて、上り調子で利益を計上している部署はこんなにも厳しいのかと思い知りました。社会に貢献しながら、経済的な利益もちゃんと出さないといけないということを教えられましたね。
価値観の違いは大きかったと思います。当時のNECの携帯電話事業はBtoBで、キャリアの仕様書通りに作ることが大事でしたが、僕はエンドユーザーの価値を考えて作るから、そこが折り合わなかった。例えば、「カラー画面になるから待ち受けに有名なキャラクターを使おう!でも契約に1億円かかる」という案があったとして、僕はそれを投資だと考えるけれど、彼らはコストだと考えるわけです。僕にとっての顧客はエンドユーザーで、彼らにとってはキャリアだったということですね。
田口 まさにドラッカーの「顧客は誰か」という問いですね。
岡本 最初は仕様書通りに作るチームと、エンドユーザーを大切にしたいチームで、携帯電話の夏モデル、冬モデルを交互に作っていたんですが、最終的には統合されたんですよ。
田口 えー!それはすごい。よく実現しましたね。
岡本 ユーザーの力が大きいと思います。ちょうど着メロやカラー液晶が出始めて、コンテンツなどのサービスが盛り上がってきたところだった。ユーザーの求める価値と、会社としての打ち出し方のどちらも大事にしながら、お互いに歩み寄った結果だったと思います。
田口 お互いのいいところを組み合わせられると強いですよね。それは、スマートフォンの時代もその体制で?
岡本 そうですね。でも、iPhoneという黒船のおかげで思うように利益を出せなくなり、なかなか事業の方向転換もできずにいました。
そこから、僕らは外にコラボレーションを求めるようになりました。田口さんと出会ったのもそのころです。企業間フューチャーセンターという場に出入りしていた方々と組んで、NECが持っている強みと上手く掛け算する商品に挑戦しました。当時、競合同士で組んだ会社でも1シーズン1モデルを出すので手一杯だったのですが、僕らがコラボしたチームでは、7モデルも出すことができました。最終的に、その1年後にはスマートフォン事業から撤退してしまったのですが、本当に多くの学びがありましたね。
田口 その後現在の部署に?
岡本 コーポレートブランドを担当する部門に異動になったのですが、携わっていた事業がなくなった後の異動ということで「どうしてブランドを任せてもらえるのだろう?」と不思議でした。当時NECは、中期経営計画を変えて、100年後にも通用する企業になろう、社会価値創造型企業になろうと方向転換したところ。だからこそ、僕がこれまで生活者マーケティングをやった上で培ってきた経験や、田口さんたちのような外部の人たちと関わってきた経験が買われての異動だったのだと思います。
田口 「ムサコ大学」もその頃からですよね。
岡本 2010年からですね。NECの食堂で、毎月外部から講師を招く勉強会をスタートさせました。それを2年半くらい続けた後、もっと地域に出ていこう、というコンセプトで2013年にスタートさせたのが「こすぎの大学」。南武線の高架下にある町内会館をお借りして毎月1回開催しています。田口さんの「Future Innovation Cafe」を見て、続けることの大切さを学んだので、とにかく継続していこうと思っています。先ほど商品の寿命の話をしましたが、寿命を迎えない価値を起点としたコミュニティ活動にチャレンジしたいという思いもありますね。
田口 コミュニティ形成は、質より量といった部分もありますもんね。続けることで分かることもあるし。
岡本 そういうことを素直に言えるようになったのも、この10年の変化です。昔は商品企画を担当していたこともあって、「誰かのマネをしている」なんて口が裂けても言えなかったのですが、今は、「誰かがやっているものを引き継いでいます」「横展開しています」と言える。心のバリアが取れた気がしますね。
田口 僕らは年齢も一緒だし、会社も同じグループだったし、自然と考え方が近くなって当たり前なんですよね。でも、マネをしているからって全くの同じではないと思うんです。僕も「3×3Lab Future」を始めたときに「同じことを既にやっている人がいる」と言われたことがありますが、同じことをしていても、運営者が違えば中身も変わる。だから、岡本さんの「ムサコ大学」や「こすぎの大学」も独自のものだと思います。
岡本 ありがとうございます。遺伝子は引き継いで、暖簾分けさせてもらったという気持ちです(笑)。
田口 それでは最後に、今後個人や企業での活動を通して、目指したい未来について聞かせてください。
岡本 2018年から、「NEC未来創造会議」という、2050年の社会を見据えて叶えたい未来を実現していくための活動を始めているのですが、これに伴って、未来に挑戦する人を応援する「GIFT & ACTION」という社会実験も始めています。これは、自分主語で楽しく活動するとそれが利他になる、という環境を作って実践しようというもの。3×3Lab Futureで出会った方との共創活動です。こうしたつながりも含めて、この10年で積み重なったもののおかげで今があると実感しています。
また、僕はすごく恵まれているので、この環境を誰かにシェアしたいと考えています。NEC未来創造会議もそろそろ若い誰かにバトンタッチして、僕はまた新しい仕事に取り組みたいと思っています。
人生100年時代ですが、丸の内プラチナ大学でもお馴染みの三菱総合研究所の松田さんが「人生三毛作」というお話をされていますよね。そう考えると、だいたい33年で人は生まれ変わる。僕は、5歳に当たる38歳で田口さんに出会って、今48歳だから15歳。青春真っ只中ですよ。今本当に青春を生きているような楽しさがありますね。
田口 なるほど、そろそろ50歳で人生折り返しなんて考えていましたが、「折り返し」というとちょっと寂しい。でも、生まれ変わると思えば見方が変わりますね。 今日は久しぶりにお会いして、岡本さんの未来に向けたお話を聞くことができて充実した時間になりました。ありがとうございました。
1995年NECホームエレクトロニクス入社、2000年にNECに異動し、携帯電話やスマートフォンの商品企画・マーケティングを手掛ける。現在はNECグループのブランド戦略を担当するシニアエキスパート。企業間フューチャーセンター等、企業の枠を超えた共創活動の経験を活かし、2013年から地域デザイン活動として神奈川県川崎市で「こすぎの大学」や「川崎モラル」を企画運営し、公私を融合させた「働き方」や「楽しみ方」を模索している。