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近年の人事部の業務は、労務環境、給与厚生、採用研修、ダイバーシティ推進、人的資本経営、ウェルビーイングの向上など非常に多岐にわたります。「人事部連絡会」は、大丸有エリアにある企業の人事ご担当者が集まり、人事部が抱える様々な課題や人事施策の情報交換やウェルビーイングの向上を目的に開催しています。今回はメンタルヘルスと睡眠の関連性を取り上げました。
健康維持や仕事のパフォーマンスを上げるために食事、運動、睡眠の3要素が重要なことは多くの方がご存知のことです。しかし、食事と運動に関しては様々な企業が取り組みを始めているものの、睡眠に関しては従業員の自己申告にとどまっているのではないでしょうか。そのような状況に着目して二人の専門家の方に睡眠の重要性について講演いただきました。一人目は医療法人みなとみらい理事長の田中俊一氏(医学博士)、睡眠と糖尿病のスペシャリストです。もう一人は株式会社アクセルスターズ代表取締役CEOの宮原 禎氏。アクセルスターズは東京大学発の睡眠テックスタートアップ企業で、ウェアラブルデバイスを使って睡眠の質や長さを分析し、健康的な睡眠を取れているかを判定するサービスを提供しています。
田中氏は「睡眠と健康~これからの検診医にも求められるもの~」と題した講演で、睡眠がいかに重要かを示すため、睡眠時間と死亡危険率の関係を示しました。両者の関係性は7~8時間寝る人を底として、V字型のグラフを描けます。すなわち睡眠は短すぎても長すぎても死亡危険率が上がってしまうといえます。睡眠の役割はいったいどのようなものなのでしょうか。実は睡眠といってもいくつかの段階があります。例えば開眼しているときはおよそ1,000億個の神経細胞が活動していますが、目をつむると目からの情報を処理する必要がなくなるので、およそ半分の神経細胞が活動しなくなります。それから睡眠に入って最も浅い眠りの「浅眠期」から最も深い「徐波睡眠」に至るまで、ますます活動しない神経細胞が増えていきます。
人は入眠してから3~4時間で深い睡眠になり、起床前の3~4時間は浅い眠りになっていきます。この深い眠りをノンレム睡眠、浅い眠りをレム睡眠と言います。ノンレム睡眠時は、日中の神経細胞が活動しているときに蓄積されたリン酸の脱リン酸化が行われています。神経細胞が活動するとリン酸化物質が溜まっていき、リン酸化物質が一定量まで蓄積されると神経細胞の活動を維持できず、眠りに落ちるという具合です。ノンレム睡眠は神経細胞のリセットのために重要で、またノンレム睡眠時には成長ホルモンが多く分泌されることもわかっています。この成長ホルモンは各臓器の再生や免疫機能の維持を促進してくれる働きがあります。
一方で睡眠の終盤のレム睡眠は、記憶のリセットが行われています。レム睡眠中、不要な神経細胞ネットワークを切り、グリア細胞が再度そのネットワークを修復することで活動時に記憶した不要なものを除去し、忘れさせるとともに、翌日にもう一度記憶領域を取り戻せる状態まで回復するのです。そのため、レム睡眠が短くなると、脳は動くが記憶力が悪いという状態になってしまいます。このように「睡眠の前半は徐波睡眠といって神経細胞を回復する。後半は記憶を回復する、それぞれ機能が違う」(田中氏)のです。
睡眠は量と質とリズムが必要だとも言われています。睡眠時間が短いということは量の不足。そして質で問題となるのは、睡眠時に呼吸が止まってしまう睡眠時無呼吸症候群です。例えば、この睡眠時無呼吸症候群はノンレム睡眠時の脱リン酸化に深刻な影響を引き起こします。それは脱リン酸には多くの酸素を必要とするため、酸素が欠乏すると神経細胞のリセットが阻害されるためです。
ここまで田中氏は睡眠の役割について説明しました。続いて、睡眠が十分でないと、どのような健康上のリスクがあるのか、に話は移ります。
「睡眠時間が短いと糖尿病になりやすく、また睡眠時無呼吸症候群の人も糖尿病になるリスクが高い。睡眠時間が短いということと睡眠時無呼吸症候群は同じ結果をもたらすといえます。また、睡眠時無呼吸症候群になると、息が止まって深く眠れません。そうすると成長ホルモンが分泌しづらくなってしまうため臓器の修復がままならず、糖尿病や高血圧、うつ病になりやすいです。」(田中氏)
糖尿病以外の高血圧症や脳卒中などでも、睡眠不足や睡眠時無呼吸症候群と関係性があります。睡眠の問題はメンタルヘルスにも影響があり、その代表がうつ病です。睡眠時間が短い人はうつ病になりやすい傾向にあり、またうつ病の人の3分の1が睡眠時無呼吸症候群だという研究結果もあります。
田中氏はさらなる危険性について警鐘を鳴らします。
「息が止まって酸素が少なくなると、一番弱くなるのは心臓と脳。心臓や神経細胞は他の臓器の10倍も酸素消費量が多いためです。息が止まったら脈が速くなる、次に血圧をあげる、それでも酸素が足りないとインスリン抵抗性になってしまう。その後、動脈硬化や血管死まで引き起こすことになりかねません。」(田中氏)
睡眠時無呼吸症候群の治療には経鼻的持続陽圧呼吸療法(CPAP)が有効だそうですが、CPAP治療を行うとうつ症状の改善、熟眠障害、仕事の活動性が向上するそうで、睡眠時無呼吸症候群を治すと糖尿病や高血圧、免疫機能も改善するとのことでした。
田中氏は最後に次のような語り、締めくくりました。
「これまでの医療は病気を数値化する、つまり採血などの検診を実施して病気か否かを線引きし、基準に満たなければ病院を受診する。病院は、検診の数値を良くするために、診断基準に基づいてマニュアルに定められたように投薬などを行います。改善する方は改善しますが、そうならない方もいます。基本的生活習慣の問題点を治すことなく投薬しても、穴の開いた鍋に薬を入れているのと一緒で解決になりません。これからの医療は睡眠や食事、運動などの生活上の問題を解決していかなければいけません。生活歴の問題点を明確にすることこそがスタートではないかと考えます」(田中氏)
続いて株式会社アクセルスターズの宮原禎氏が「人的資本経営・健康経営における睡眠の重要性」と題し、日本における睡眠の取り組み状況や同社が進める先進事例を紹介しました。
「運動と食事の問題は取り組みやすい。その一方で睡眠は寝ている最中の話なので、何が起こっているかわかりづらく、これまでは注目されてきませんでした。しかしながら、睡眠は食事や運動よりも体にとって一番重要な生活習慣です。極端な例ではありますが、一週間食事をとらないよりも、一週間睡眠をとらない方が、命を落とすリスクが高いです」(宮原氏)
また宮原氏は企業にとっての重要性についても話しました。2023年3月期決算より、上場企業は有価証券報告書において人的資本の情報開示が義務付けられました。政府が公表したガイドライン7分野19項目のうち、4項目(エンゲージメント、精神的健康、身体的健康、安全)については睡眠と深く関わり、企業の従業員の睡眠に対する取り組みは重要性を増していると言います。
宮原氏のアクセルスターズが約2,700人に行った調査では、睡眠をとれている従業員ほどエンゲージメントが高いという結果が出ているそうです。
「同じ会社で、同じ上司の指示を受けてもよく眠れている人たちはポジティブに捉え、共感性も高く、眠れていない人たちはネガティブに捉えて共感性も低いです。実は睡眠が影響を与える脳の状態によって、エンゲージメント結果が左右されています。社員エンゲージメントを高める様々な施策よりも、会社のことをポジティブに捉えるようなスタンスが、睡眠によって獲得できるのです」(宮原氏)
また精神的健康についてストレスチェックアンケートなどを行っている企業が多いものの、それはストレスと結びつきやすい因子との相関関係を把握するだけであって、個人がメンタルタフネスやストレス耐性をつけるためは睡眠が大切だと言います。身体的健康について、先に田中氏が示すように、生活習慣病の予防という観点で睡眠は非常に重要だということがわかっているにも関わらず、対策が追いついていません。宮原氏によれば、睡眠時無呼吸症候群の潜在患者は約1,000万人いるといわれているものの、約50万人しか治療を受けていないそうです。つまり9割以上が未治療で、生活習慣病の予備軍だともいえます。単に従業員の健康という問題のみならず、生活習慣病の治療にかかる医療費を抑えるという意味でも従業員の睡眠に関与することは重要です。安心安全についても、工事中の事故など労災に関しても、睡眠不足が注意力の低下をもたらすことは自明のことでしょう。
睡眠障害では、睡眠中の覚醒状態をどれほど正確に捉えられるかが重要です。例えばうつ病の患者は健康な人に比べて眠りが浅く、睡眠中に覚醒してしまうために、その状況を正確に把握する必要があるのです。株式会社アクセルスターズではこの睡眠問題へのソリューションを提供するために、"ACCEL"という睡眠測定技術を開発し、腕に着けるウェアラブルデバイスで計測する方法を考案しました。この技術の精度を高めるため、同社は6,000件以上という世界最大規模の計測データベースを有し、脳波と腕の計測をAIに学習させ質の高いデータ収集をしています。質・量ともに最高レベルの睡眠データ収集基盤に裏打ちされた測定技術よって、同社のウェアラブルデバイスは睡眠中の無自覚な覚醒を高い精度で把握できます。
ウェアラブルデバイスは2024年春に医療機器化を目指していますが、ACCEL技術を使った企業向けの睡眠健康度測定サービス「スリープコンパス」の提供は既に2023年5月から開始しています。スリープコンパスでは、ウェブ問診の後にウェアラブルデバイスで7日間の睡眠の質・量・リズムを測定し、4段階で評価し、改善が必要な場合は、睡眠改善へのe-ラーニングや睡眠衛生指導なども提供するそうで、2028年までに100万人の利用を目指しています。サービス開始に先立ち行われた実証実験では、一回目の測定で87%の人に睡眠の量・質・リズムのいずれかに課題が見つかり、睡眠衛生指導を経た後に、半数の人が睡眠の改善効果を自覚したという結果が得られ、また副次的効果として生活習慣や心の落ち込みの改善などもみられたと宮原氏は話しました。そして、宮原氏は最後に次のように語りました。
「運動と食事は今まで人事部の方なども取り組まれてきました。しかしその背後に睡眠というものが実は一番大きな健康ファクターであるものが、まだ対応が進んでいないのです。従業員の心と体の健康のために、ぜひ睡眠に着目していただきたいです」(宮原氏)
今回の講演では、睡眠の重要性について田中氏と宮原氏から非常にわかりやすくお話いただきました。睡眠の改善が仕事のパフォーマンスだけではなく、社員のエンゲージメント、メンタルの改善、生活習慣病の予防という観点で非常に有効であることが示され、参加者が熱心にメモをとる姿も見られました。今後の企業の取り組みが注目されそうです。